満たされた涙の意味
ほんの数秒だけ目の当たりにした出来事なのに、今でも鮮明に思い出せたり、いろんな視点から考察してしまう。
ある日池袋にていつもの用事を済ませ、駅に向かおうとしている道中のことだった。通りかかった喫茶店の前に立っていた女性が突然、向かいにいる男性の目の前でしゃがみ込むところを思わず見てしまったのだ。
同時に立ち止まろうとしたが、結局立ち止まらず素知らぬフリをしてその場を後にした。そこに傍観者はいらない、いや居合わせる必要はないと自ら悟ったのだった。
とはいってみたものの、やはり…というかどうしてもあの光景が気になってしまい、少し離れた場所から振り返ってみる。
だが案の定、休日の池袋駅付近の尋常じゃない人混みに埋もれてよく見えない。
あの時しゃがみ込んだ女性はもしかしたら、おそらく涙を流していたのかもしれない。それは嬉し涙かあるいは…いや、嬉し涙であってほしい。
きっと長い間その人と会おうとしてなかなか機会が取れず、そしてここ数年で発令されてばかりいた緊急事態宣言の煽りも受けて、あらゆる面で思いが募るに募ってしまったのだろう。
そうして出会ったあの瞬間にようやく花を開かせることができたと思ったら、心の中で拍手喝采を送りたいと素直に思ってしまった。
願わくば、けっしてそれが哀しいことではないと、そうあってほしい。
昔から文通でしかやりとりできなかったことが、技術の進歩と共に電話やメール、そしてSNSなどを使って、離れていてもコミュニケーションをさらに身近で感じながら取ることができるようになった時代。
それぞれとる手段は変わっても、目的はさほど変わっていない昨今。進化し続けるツールを使って気軽に出会えるようになってきた一方で、喜ぶという感動が少しずつ薄まってきていると思えるのは、果たして気のせいだろうか。
巷で話題となっているマッチングアプリ等を使って出会う手段も増えてきているが、人見知りがある私にとっては正直あまりうまく出来そうにもない。
ろくにまともに会話することのなかった学生時代と比べたら、いくらか改善されてきてはいると思う。だがそれでも、未だに感情の表し方が下手くそだと引き摺っていることもある。
別段、初対面と人と全く話すことができないわけではない。ただその人に対して、つまらない人だなんて思われてしまわないようにしないと…。
そう考えてなんとか取り繕うするも、肝心なところで感情が制御できず、結果的に空回りしてばかりいる。
人を想うことは、簡単そうに見えて実は簡単にできていない。
今も私はその難しさに直面してばかりいる。縁もゆかりもない遠く離れた場所にいては、あの日あの時あの場所で…目の当たりにしたドラマのワンシーンのような場面に遭遇することも叶わない。
けれどもしもそれを実現できたのなら、抱き合って出会えた喜びを共に分かち合うようにして、一つのありふれた言葉を伝えたい。
…なんて素直にできたら、どれだけ素敵なコトだと思えるだろう。