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空高く蹴り上げたボールはどこへ
小学生の頃、私は休日の学校の誰もいない校庭で、サッカーボールを空高く蹴り上げていた時期があった。
その当時の私は、学区内で唯一あるサッカーの少年団に所属していた。だが、高学年に進級する手前で、そろばん塾に通い始めるようになる。やがて、二ヶ月に一度行われる検定試験を本格的に受けるタイミングで、自然消滅という形でもって辞めることにしたのである。
元から私は、親のすすめでサッカーを始めたものの、正直なところ楽しさをほとんど見出せないでいた。リフティングを上手にこなせないどころか、ドリブルやパス、それにシュートにおいても「超」がつくほどに下手くそであった。
そのうえ、周りのチームメイトと比べて体力もなければ連携する力も低く、もはやどこからどう見てもお荷物状態だったと思う。そんな中に囲まれながら、好きでもないサッカーを続けることが、自分にとって日に日に苦となっていた。
離脱するまでの半年間は、隔週で練習を行う場所となっている小学校の校庭に、一切顔を出すことはなかった。当然、親から「嫌でも練習に行きなさい!」などと叱られることはあった。
しかし、人と並んでサッカーをやることに対して、誰にも理解されることのない「負」の感情を持ってしまった私は、その資格がない等と思い込むようになり、親の説得を押し切って行かない選択を貫いたのだった。
前述のように、入れ替わる形でそろばん塾に通い始めるようになったことも、起因の一つでもある。人と共に一丸となって取り組む楽しさより、独り淡々と物事をこなしていくことにおいて、一生ついて回るような楽しさを手に入れたのである。
それからは、自分にとって行きたくなくて仕方のなかったサッカーの辛い経験を忘れるようにして、そろばん塾で検定試験に受かるための練習に、ひたすら力を注いでいた。
けれどその一方で、誰も来ることのない休日の校庭を見計らい、三つ下の弟と一緒に、個々にサッカーボールを持って出かけることがあった。
そこでドリブルやパスなどの練習をするでもなく、何の意味もなくサッカーボールを空高く蹴り上げていたのである。サッカーが上手になりたいという願いよりも、目の前にある校舎の最上階よりももっと高く飛んでいけと、そう思いながら。
蹴り上げたボールは、まるでロケットが発射されたかのように真っ直ぐ飛ぶこともあれば、出入り口の閉まっているプールサイドに不時着してしまうこともあった。
当時の自分を思い返せば、サッカーのように大人数で楽しむのではなく、独りあるいは少数で集まって物事を楽しむ事に価値を見出していたと思う。
ドリブルやリフティングなど、いろんな技を磨いて試合に役立てることなんてどうでもいい。ただ純粋に、ひたすらボール蹴り続けることができれば、それだけで十分だと考えていた。
だから私は幼い頃から、人一倍サッカーを楽しむことができなかったのだと、今更になってそう感じたのである。もしかしたら、その時点で楽しさを共有することにおける感覚が、すでに別の方へと向いていたのかもしれない。
中学生以降も、体育の授業の一環でサッカーに触れることはたびたびあったが、年が経つごとに、フェードアウトしていくように関わる回数は減っていった。
そして社会人になってからは、サッカーに対しての縁は綺麗さっぱりと消えた。無論ボールに触る機会も、十数年経過して久しく思う中まったくない。おそらくこの先も、余程の奇跡とも云えるようなものがない限り、触れることはないかもしれないであろう。
もしも今、手元にサッカーボールが残っているとしたら、どこまで空高く蹴り上げることができるのだろうか。ほんの少しだけ、幼い頃の自分に肩を並ぶようにして、寄り添ってみたくなったのであった。
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