結局何も残らなかった? | エッセイ
2024年の年の瀬に実家へと戻ろうとしている一ヶ月前、母から映画を一緒に観に来たいとのLINEが入った。
その休みの間、私は特にどこかに出かける予定は立ててなかった。暇であるとはいえ、一緒に行くというのは並ならぬ抵抗があったのである。小学生だった頃ならまだしも、成人してから随分と年が経っている中、親子で映画館に行くというのは、なんとも気恥ずかしいものがあった。
私はひとまず「友達と観に行ってきなよ」というニュアンスを醸し出すように促してはみた。しかし周りに、その映画を一緒に観に行こうと誘えるような人物はいないらしく、もはや私にしか頼めない状況だった。
それに、私の地元で上映されている映画館は、最寄りの場所でも車で10分以上かかる場所に位置している。そもそも、母がひとりだけで映画館に足を運ぶのというは、私が思う以上になんとも心細い様子だとも伺えた。
因みに観ようとしていた映画のタイトルは、聖☆おにいさんであった。
母は昨年から余暇があれば、家でAmazonプライム等で配信されている映画やドラマを観ている。最近では邦画のみならず、日本語の吹き替えが入らない字幕のみの洋画にも触れている。それも年代問わず、幅広く観ているようだ。
その中で、実写版の聖☆おにいさんをたまたま目にしたらしく、暫くして劇場版が公開されることになったという情報を入手してからは、絶対に観にいくんだと妙に意気込んでいたのだった。
私は聖☆おにいさんについて、名前やどんな物語なのかを粗方知っているつもりであった。なるほど、これではひとりで行こうにも友達と行こうにもなんとやら…と、私は妙に納得(?)してしまったのである。
そして迎えた当日。到着した映画館の入口付近では、あまり混み合っている様子は見受けられず、想像していたよりも閑散しているような印象であった。おそらく年末だからこんなに空いているのだろうかと、私は個人的な見解をもって勝手に解釈していた。
よくよく考えてみれば、私は普段から自発的に映画を観ることは極端に少ない方である。そのうえ、映像音痴が足枷(?)となっているのか、一度のみならず繰り返し視聴しないと内容が浸透してこないタイプの人間でもある。
ゆえに、地元にある映画館を含めて最後に観に行ったのは、果たしていつ頃だったのか。それすら思い出せないくらい、長いこと足を運んでいない。
といった具合にかなりのブランクがあるにも関わらず、チケットの購入はスムーズに行うことができた。時々、YouTube上でVlog等の動画を垂れ流しする程度で観ていたおかげで事なきを得たのだった。
こうして席について本編が始まってから早々、私は必死に口から笑い声が漏れないように、素知らぬフリをしながら堪えていた。一捻りどころか半捻りでも糸を緩めたら、自分で云うのも難だが周りが一瞬にしてドン引きするほどに、大いに爆笑してしまうからだ。
念のため予習をかねて、私は前日まで実写版を視聴していた。だが、想像以上に笑いが止まらず、実家は自分自身のゲラゲラ声によって、ある種の洪水状態に見舞われていたのであった。
時折周りからクスクスと、笑い声が漏れているような雰囲気があちらこちらから漂ってくる。もしかしたら、他の人たちも同じように、爆笑したい欲を必死に堪えているのかもしれない。
やがて終盤に差し掛かると、空気が凍りつくようなシリアスなシーンに突入する。だがそれも束の間、すぐさまコミカルなのか内輪ネタなのか、視聴者側でもいったい何が起こっているのか、正体がまったく掴めない謎のシーンへと逆戻りする。
流石は佐藤二朗。もはや予測不可能なアドリブを、ここぞとばかりに繰り出してくる。これでは、御涙頂戴といった感動するシーンに直面しても、刺激なり衝撃が思った以上に強すぎて、何にも頭に入ってこない。
そんな激辛なるシーン(?)がこびり着いたまま、本編は何事もなかったかのようにエンドロールに入った。けれども、これはこれで逆に良かったかもしれない。一連の過程を経て大団円を迎えるよりかは、何の変化もない日常に戻る方が案外良いとも思っている。
しかしながら、佐藤二朗のアドリブに加え、豪華役者の無駄遣いとやらは、いったいどんな意図を含んでいたのか。そう感じせざるを得ないくらい、他の映画では到底真似できない演出だったと思う。
そして何より、自分を含めたあのスクリーンの前で座って観ていた人たちは、およそ一時間半もの間でいったい何を見せられていたのか。そう疑問を持ったに違いない。
「ね、何も残らなかったでしょ?」
聖☆おにいさんの映画に出演した俳優陣曰く『結局何も残らなかった』という感想を、身を持って体感したその帰り道、母は満足そうに切り出す。
「うん、なんにも残らなかったねぇ〜」
その問いに対し、私は愛車を走らせながら適当に相槌を打った。たしかにあの映画は、主演の一人である松山ケンイチが自信満々に『何も残らない』とアピールするのも頷ける。
ただ母にとっては、何も残らなかったわけでなない。十数年越しに、息子と映画に観にいくことができて、良い思い出になったのではなかろうか。無愛想を装いつつも一つ親孝行ができた私は、密かに笑みを浮かべながら戻って行ったのだった。