政治講座ⅴ1845「卑屈根性か、両班気質か、奴婢気質か、紙幣に苦情の絶えない捏造歴史教育の韓国」
日本の呪縛から逃れられないのは、自国の文化・思想に原因ある。そして、現在は捏造歴史教育で反日意識を植え付けている。吾輩の尊敬する朴鉄柱氏の記事をも紹介する。
特に感銘を受けた言葉を抜粋する。
それと日本の紙幣の肖像に何かと難癖をつける韓国。そして、捏造歴史教育の結果の反日行動の一部韓国人へ若干の正しい歴史認識を解説をする。蛇足であるがハングル文字についても言及する。
皇紀2684年7月6日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
朴鉄柱氏の紹介
悲劇の親日家 朴鉄柱氏|出アメリカ~脱・戦後体制(さくら子) (note.com) より
「韓国から日本をながめていると、日本が〝心〟という字に見える。
北海 道、本州、四国、九州と〝心〟という字に並んでいるではないか。
日本はすばらしい。
万世一系の御皇室(御をつけらる)を戴き、歴史に断絶がない。日本固有の神道が、現在に至るまで相続されており、全体が調和された形でできている。
〝八紘為宇〟という考え方は、日本の大らかさの現れであって、これは積極的に世界に知らせる必要がある。
それに較べて韓国の歴史は、悲惨であって断層が深く、涙なくして見ることはできない。暗い場所から見れば、明るい所は余計にはっきりと解る。韓国は日本文化の豊かさの中から学ぶことによって、内面的支柱を確立するよう努力したい。」
「韓国の檀君神話といっても、あれは高麗時代、モンゴルの支配下に置かれた時、一然上人が民族精神を振起するためにまとめたもので、高麗神話の性格が強い。
ほかに新羅や百済や駕洛にも神話がある。
韓国は、日本のように統一した一つの 神話にはなっていない。
日本神話は、ギリシャやユダヤの神話に較べて明るく、ロマンの香りが高く親しみやすい。
それに日本神話は檀君神話より四百年も前にまとめられた。
私が日本神話に内面的親しみを感ずるのは、日韓は同祖だと信ずるからである。
それは民族学的な立場からも立証できる。韓国は古来から祖先信 仰と自然崇敬の念が強く、山神霊廟があり、それらをまつるために、『鳥居』や『しめなわ』『ヒモロギ』を使ってきた。それに日韓両国には、「白衣」の思想が あった(これらは中国にはない)。
日本の神職は、神に近ずく時には白衣を着る。韓国民も霊廟に参拝する時には白衣を着るし、目上の人に会う時にも白衣を着るのが礼儀となっている。まず自らの身を浄める訳である。」
韓国人が非難する日本の紙幣の解説
伊藤博文氏の紹介
朝鮮(韓国)人の安重根に暗殺された。韓国をこよなく愛して日本と韓国の統一を反対していた重鎮の伊藤博文氏を安不明重根は暗殺した。安重根を事情聴取じた記録と安重根の打った拳銃の弾丸は別人に当たっていた。そして、殺害すべき伊藤博文氏の顔も知らなかったようである。事情聴取では、安重根は、天皇を尊敬しており、天皇を苦しめる逆賊として伊藤博文氏を認識していたようである。誰に騙されていたかは不明であるが唆されたようである。次の写真を見ればわかるが韓国文化の民族衣装を身に着けている伊藤博文の姿をみると韓国にとって重要な人物を自ら暗殺してしまった歴史があることを忘れている。そして「一進会」という日本と韓国の併合を推進しようとする韓国集団もいたことも忘れてはならない。陰謀論の渦巻く時代であった。
福沢諭吉氏の紹介
慶応義塾大学を創立して、韓国からたくさんの留学生を受け入れた。そして、韓国では両班が使っていた文字は漢字であり、ハングル文字は殆ど使われていなかったが識字力を。あげるためにハングル文字の教育をしたのは福沢諭吉氏の塾生であり、それにより、ハングル文字教育が徹底された。
両班身分制度を廃止して平等な身分制度と識字力向上と大学まで作り、鉄道をつくり、土地の測量を行い、朝鮮半島のはげ山に植林を行い、治水完備をして農作物増産体制を作った。それにより、食糧事情が大幅に改善して、必然的に韓国の人口も大幅に増えたのである。このように当時を知る95歳の老人を「当時の暮らしは良かった」という発言だけで反日教育を受けた若者が殴り殺した事件があった。
渋沢栄一氏の紹介
渋沢栄一氏は日本最古 の銀行の第一国立銀行 を、 1873年 ( 明治 6年) により創設した。その後銀行の受付番号ごとに数字の銀行名にした。第一銀行・・第四銀行‥十六銀行・・十八銀行・・・七十七銀行・・八十二銀行・・百十四銀行など多数の銀行が設立された。金融恐慌などの経営不振などで統廃合が進み、財閥名や地域名をつける銀行もあり、最近のことではバブル崩壊のために金融機関の統廃合も進んだ。
当時の所在地は現在における 東京都 中央区 日本橋兜町 であり、現在はみずほ銀行兜町支店が置かれる 。
国立銀行という名称であるが、民間資本による民間経営の株式会社であり、国立銀行条例により発券機能等を有していた。国立銀行条例による営業免許期間終了に伴い、1896年に一般銀行に改組し第一銀行となる。、明治 5(1872)年制定の国立銀行条例に基づいて設立された国立銀行(注)の銀行名で、内認可順に付されたものです。国立銀行は、明治 6(1873)年に開業した第一国立銀行から明治12(1879)年12月開業の第百五十三国立銀行まで、 153行が設立されました。
1943年、太平洋戦争戦時下の国策により、三井財閥の三井銀行と合併し帝国銀行となるが、戦後の1948年には再度分割し第一銀行として再建。1971年(昭和46年)10月に日本勧業銀行と合併し第一勧業銀行となるまで存続。
第一勧業銀行は富士銀行、日本興業銀行と合併し、現在のみずほ銀行に繋がる。
日本帝国の韓国経済侵奪の主役が日本の新一万円札の新しい「顔」に
中央日報
「新札は明日から支店に入ります。明日、また来てください」
3日午前11時、東京銀座のある大手銀行。お客さんがこの日午前8時に発行が始まった新紙幣を買おうとし、職員たちは案内で慌ただしかった。新札を手に入れるため、わざわざ銀行を訪れたお客さんはがっかりした顔で帰った。
それぞれ40年(1万円札)と20年(5000円札、1000円札)ぶりに新紙幣3種が発行され、日本は浮き立っている。日本の岸田文雄首相は同日午前、日本銀行で開かれた発行記念式に出席し、「新紙幣が国民に愛され、日本経済に活力を吹き込むことを期待する」と述べた。この日、1兆6000億円規模の新札を発行した植田和男日銀総裁も行事に先立ち、記者団に「新しい日本の銀行圏が国民の皆さんの手に広がり、わが経済を支える潤滑油になることを期待する」と述べた。
新しい紙幣を飾った人物も話題になった。1万円札には「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一(1840~1931)が描かれた。5000円札には「日本女性教育の先駆者」津田梅子、1000円札には破傷風治療法を開発した細菌学者の北里柴三郎が描かれた。
特に、1984年以降40年ぶりに1万円札の主人公になった渋沢が多くの注目を集めた。財務省の前身である大蔵省の官僚だった渋沢は、現在日本の貨幣単位である「円」制度を作った。1973年、 1873年 ( 明治 6年) 日本初の民間銀行である第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立し、5年後には東京商工会議所の前身である東京商法会議所の初代会長も務めた。渋沢の影響で、日本に設立された企業だけでも500社を超える。
渋沢の肖像が入った新札の発行に合わせて東京の大型書店には1916年に出版した『論語と算盤』が新たに出版され、展示されている。NHKは渋沢の顔が描かれた新札を受け取るために、渋沢との縁のあるみずほ銀行に客が殺到したと報じた。
しかし渋沢は韓国で「経済侵奪の主役」として批判を浴びている。渋沢は朝鮮末期、韓国電力の前身である京城電気の社長を務め、1902年大韓帝国の承認と関係なく発行された1ウォンや5ウォン、10ウォンに肖像が載せられた。
朝日新聞は野村総合研究所の推算を引用し、今回の新札発行による経済効果が1兆6300億円に達すると見込んだ。ATM機・自動販売機などの交替などに力づけられ、日本経済にも肯定的な効果があるという説明だ。隠れていた「タンス預金」の出現にともなう経済効果にも言及される。長い経済低迷と低金利で、使用されずに積もっていた約60兆円の「タンス預金」が今回の新札発行と利上げで再び市場に戻り、日本経済に肯定的に働く可能性が大きいということだ。
タンス預金はなぜ問題? 紙幣刷新で「タンス預金をあぶり出す」と世の中はどう変わるのか
永濱利廣 によるストーリー
※この記事は2023年7月3日初出です
1000円、5000円、1万円紙幣が2024年度上期をめどに一新される(編注:新紙幣は7月3日から発行)。前回2004年の刷新時は、2002年8月2日発表、2004年11月1日新紙幣流通開始だった。現在の紙幣は2024年までに20年間使用されることとなり、その後変更する運びとなるが、この変更に伴ってさまざまな需要が発生している。
新紙幣の一般的な目的や動機としては、偽造防止とされている。このため、今回の刷新も最大の目的は偽造防止であることが推察される。しかし、前回の紙幣刷新は、発表から紙幣刷新までの期間が約2年だった。これに対して、今回は発表が2019年に対して紙幣刷新が2024年となり、発表から刷新までの間隔が5年もあり、通常より長い印象を受ける。この背景として市場では、恐らく改元と発表時期を合わせる意向があったものと推察されている。
また、今回の紙幣刷新の別の狙いとしては、「タンス預金」のあぶり出しが隠れていることが推察される。
そもそもなぜ「タンス預金」をするのか
一般的に、個人がタンス預金をする目的は主に5点が指摘されている。
まず1点目は、いつでも好きな時に現金が使えるということだ。自宅に現金を保管しておけば、いつでも必要に応じてお金を使うことができる。また、銀行やATMに出向く必要もなくなり、ATMの利用手数料も節約できる。そして何よりも、なにがしかの緊急事態が起きて簡単に預金の引き出しができなくなった場合に、手元にまとまった額の現金があれば、緊急の支払いができる安心感がある。
そして2点目は、銀行の破綻などから資産を守ることができることだ。現在、銀行にはペイオフ制度(※)があるが、それでは1000万円を超えるお金を預けている銀行が破綻した場合には、1000万円を超えた分の預金が保証の対象にならない可能性がある。このため、現金資産が1000万円を超える場合は、超えた分をタンス預金にしておけば、銀行破綻から資産を守ることができる。
3点目は、相続発生時に口座が凍結されても困らないことだ。というのも、被相続人がなくなることで相続が始まると、遺産分割協議が終わるまで個人の預金口座が凍結され、現金を引き出すことができなくなる。しかし、家族が亡くなった直後は葬儀費用等が必要になるため、手元にまとまった現金があれば困らないで済むことになる。
そして4点目が、国に個人の資産を把握されないということだ。預金口座にマイナンバー登録が義務付けられているため、国は金融機関に預金している個人の資産保有額を把握することが可能になる。しかし、タンス預金はマイナンバーに紐づけられないため、国に個人の資産を把握されずに済むことになる。
最後の5点目が、家族に知られずに貯蓄ができるということだ。銀行預金や有価証券投資は、調べればすぐに資産総額が把握できる。しかし、タンス預金は把握が難しくなるため、家族に知られず自由に使える自己資金を確保できるメリットがある。
主にこうした5点が、タンス預金が増える理由として一般的に指摘されている。
文中で解説したハングル文字について歴史的考察をする。
本題は明の前の「元」から若干解説しなければならない。
朝鮮半島では1259年に高麗はモンゴルに服従。
1274年元軍、高麗軍を従え日本に遠征(文永の役)。
1278年モンゴルの服装を採用することを命ずる。
1281年元軍(朝鮮人が殆ど)として日本へ再遠征(弘安の役)。
その元は1351年~1366年の紅巾の乱がおきて、
1368年に元朝が倒れ、元はモンゴル高原に退く。
丁度、元によるモンゴル、支那、チベット、朝鮮半島、アジアからヨーロッパにまたがる広大なモンゴル帝国が築かれた。
征服者による度量衡が統一されるのが常である。過酷な征服者は言語まで強制、民族消滅政策(現在の中共のジェノサイド)もあるけれど、当時の「元」はそのようなことはせず、通訳・意思表示のための文字を発明した。
そこで、この広大な地域を支配するための言語を表す必要からチベット文字からパスパ文字やモンゴル文字が発明された。
前述した通り李氏朝鮮時代に、元に征服された経緯から漢字以上にパスパ文字の表音文字の必要性を感じて、1419年の応永の外冠で、日本の対馬侵攻の時に、中国人と朝鮮人を連れて帰り、彼らから知識を吸収して、1446年訓民正音(ハングル)が公布された。パスパ文字発明からハングル公布までと考えると年月が長すぎる。1419年の応永の外冠と1446年の訓民正音(ハングル)が公布の期間が妥当であろう。
今、手元の『21世紀の歴史図鑑ダイアログ世界史図表』p52を見ている。有史以来の歴史書を俯瞰すると新たな事実が見出される。
ハングル文字は倭冦が作った
世宗王がハングルを研究し作成した機関(集賢殿)ができる直前。李氏朝鮮は倭寇鎮圧を目的として対馬に侵攻しています。そして対馬から倭寇である中国人と朝鮮人を連れ帰っています。倭寇は日本人の海賊と思いがちですが、実際にはほとんど中国人と朝鮮人でした。この事実は中国・朝鮮の史書に書かれていることである。つまり日本人の勝手な主張ではない。
そのとき世宗王は中国人と朝鮮人から倭寇の文字を手に入れたのであろう。
ハングル文字が愚民文字と蔑まれていたのはこのためである。
倭寇の文字だからである。
何度も言うようだが、ハングルが(仮にパスパ文字から創作されたとしても)王が作ったものならば、愚民文字とは蔑まれなかったハズです。蔑まれるだけの理由があったハズなのです。
では何故、世宗王は「倭寇の文字」を採用したのでしょうか?? 当時の朝鮮には独自の文字がありませんでした。「だから独自の文字が欲しい……」ではない。
中国やモンゴルに気遣いし、独自の文字を持つことは躊躇していたくらいである。そもそも単なる文字なら漢字で十分なのです。日本なんて今でも漢字と漢字から派生した「ひらがなカタカナ」で済ませていた。世宗王が新たな文字を制定するのには、何かしらのメリットが必要である。そのメリットとはなんであろうか?
そのメリットが「多くの音節を表現出来る」ということ。
単に多いだけではない。
「中国語と朝鮮語をカバーする表音文字であること」である。
つまり倭冦が使っていた文字は中国語・朝鮮語と日本語を表現出来る表音文字だったのである。さて、どうして倭冦の文字にはそんな機能があったのであろうか?
ハングル文字は異文化交流の産物
倭寇は中国人と朝鮮人と日本人の混成集団でした。
混成です。
混成ということは、例えばリーダーが日本人で部下が中国人というパターンです。逆でもいいのですが、ともかく言葉が違うわけですから、意思疎通は大変です。
通訳という手もありますが、彼らは意思疎通をスムーズにするために「表音文字」を作り出しました。
中国語で「行け」とか「撃て」とか、そんな簡単な言葉でもいいから知っておいた方が得です。
中国語・朝鮮語は日本語には無い発音も沢山あります。
そこで、中国・朝鮮・日本で共通となる発音記号が便利だと考えました。
そうして作られたのが阿比留文字です。
阿比留文字は対馬の神社に残る文字で、江戸時代には漢字が伝わる前からある「神代文字」と言われてきましたが、現在はハングル文字から創作した文字とされます。なぜ創作だと言われるのかというと、日本語には無い発音が表記されているからです。しかし、倭寇が意思疎通のために作った表音文字とするならば、神代文字ではなく、成立は13世紀か14世紀となり、日本語には無い発音があったとしてもなんら不思議ではありません。また、ハングル文字に似ていて当然です。
阿比留文字の原型はパスパ文字でしょう。
13世紀に元寇があり、高麗にはモンゴル人がやって来ています。対馬にはモンゴルのパスパ文字が伝わっていたとするのが当然。いや倭寇にはモンゴル人がいたのだと思います。もしくは取引相手にモンゴル人が居たのでしょう(済州島など)。このパスパ文字を元にして、誰にでも分かる、簡単な仕組みで、中国語と朝鮮語と日本語をカバーする表音文字を作り出しました。
つまり阿比留文字・ハングル文字は中世の異文化交流の産物ということになります。
世宗王が描いた未来
その後対馬に侵攻した世宗王は阿比留文字を得ます。
彼はこれを朝鮮の文字にしようと考えました。
なぜか??
倭寇は朝鮮や中国の「賎民」です。
少なくともほとんどの朝鮮人はそう思っていました。
賎民は卑しく、そして愚かな存在です。
ところが、その彼らが文字を使って意思疎通をしていたのです。
しかも朝鮮語だけでなく中国語もカバー出来る文字です。
この文字は優れていると世宗王は考えたハズです。
李氏朝鮮は儒教の国で、「正しい」「徳のある」人物が国を治めるとうまくいく、という考えです。よって優秀な人物を科挙というテストで選抜して官僚にします。この科挙は「漢文」で出題されます。文字が読めることが科挙受験の大前提です。文字が読める階級はこれによって子々孫々と公務員で有り続けるのです。
そこで庶民も漢字・漢文が読めるようにしたい、と世宗王は考えました。単に朝鮮語をカバーしただけの文字なら、意味はない。漢字も表音出来る阿比留文字は世宗王にとって魅力的だったのである。阿比留文字を広めれば、科挙を受ける人材が増える。広く人材を集めることができる。優秀な人材が集まれば、国は発展する。
ところが漢字が読める階級は反発します。その階級は両班です。
自分たちの特権が失われるからです。
世宗王が持ってきたこの阿比留文字を「愚民文字」と蔑み、バカにし広めまいとしました。そのうち、科挙そのものが形骸化します。世宗王の目的は果たせないまま、この世を去り、数世紀後、ハングル文字を庶民にまで広げたのは何と「倭冦」と蔑んだ日本人(福沢諭吉の門下生)でした。皮肉ですね。
応永の外寇(おうえいのがいこう)
室町時代の応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による対馬への侵攻を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征(朝: 기해동정)と言われる。
当時足利義持(室町幕府の将軍)が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている。 朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞盛の抵抗により、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫した。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であったが結局実現しなかった。この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。
倭寇の主体は日本人?中国人?
倭寇の主体は前期倭寇と後期倭寇で異なります。前期倭寇は日本人中心でした。それに対し、後期倭寇は中国人が中心となる。
前期倭寇は14世紀に日本を含む東アジアが政治的に混乱したことによって生まれた。日本では鎌倉幕府の滅亡や南北朝の争乱が発生し、中国では元が滅亡する。こうした混乱を衝いて、九州北部の武士たちが朝鮮半島や黄海沿岸で略奪行為を行った。
東アジア貿易で目玉商品となった生糸
一方、後期倭寇は明の解禁政策に対する反発から生まれます。明王朝成立後、中国は経済的に発展し、国内に余剰物資が生まれていた。明の商人たちは高値で売れる生糸などを輸出したかったのですが、海禁によってそれが許されない。
そこで、生糸などを売って利益を上げたい中国人商人たちは、武装して密貿易を行い、時に明の水軍と戦った。そのため、後期倭寇の主体は中国人となる。
後期倭寇の詳細
後期倭寇は勘合貿易が終わった16世紀半ば(戦国時代)に中国人を主体とした構成で密貿易を行っていた人たち。
前期倭寇の詳細
☑ 活動の始まり:元勘合貿易が廃絶し、明の海禁政策に反して武装貿易集団が密貿易を始めました。
☑ 活動していた場所:中国南部である東シナ海
☑ 活動していた人の構成:大部分は中国人。日本人は少数でした。
☑ 目的:海賊行為の他に密貿易を行っていました。日本の銀と中国の生糸の密貿易を行い金を得ていました。
My opinion !
韓国の代表的な書誌学者である高麗大学のチョン・グァン名誉教授(76)の学説(パスパ文字)がこれで覆り、前述した仮説「ハングル文字の起源は倭寇」が実証されたなら、韓国の国民は、支那の漢字を捨て、日帝残滓のハングル文字を捨て、そして、文字の無い且、歴史を捏造した民族になる道を歩むことになるのであろう。文明・文化は混じり合いながら進歩するものであるが、彼らは、また、文字の無い、文化の自滅へ向かうのであろうか。いと悲しいかな!いと愚かな! かように思うのである。呵々。
参考文献・参考資料
日本帝国の韓国経済侵奪の主役が日本の新一万円札の新しい「顔」に (msn.com)
タンス預金はなぜ問題? 紙幣刷新で「タンス預金をあぶり出す」と世の中はどう変わるのか (msn.com)
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