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政治講座ⅴ1642「涙無くして語れない特攻隊員の姿」

今の日本の平和の礎となった英霊に改めて安らかに眠らんことを願う。

今回は国家の為に命を投げううって戦った「特攻隊員」の報道記事を紹介する。

     皇紀2684年2月20日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司


特攻隊員の遺書に見る、米軍が恐れた若きパイロットたちの意外な素顔

CNN.co.jp によるストーリー • 13 時間

第2次大戦中の戦闘で損傷した日本海軍の零式艦上戦闘機の一部=知覧特攻平和会館/World Discovery/Alamy Stock Photo© CNN.co.jp

鹿児島(CNN) 神風特攻隊と聞いて心に浮かぶイメージは、恐らく叫び声を上げるその顔をゴーグルで隠し、死への急降下を開始するパイロットの姿だろうか。

あるいは顔は全く浮かばず、ただ戦闘機1機が軍艦に突っ込むその状況かもしれない。

恐らくそれは、じめじめした半地下の掩蔽豪(えんぺいごう)で、自らの寝具に頭をうずめて涙に暮れる10代の少年の姿ではないだろう。

ましてや楽しげに子犬をなでる高校生たちでもないはずだ。このわずか数時間後、彼らが自分の体を焼き尽くしながら米軍の空母を沈める任務に就くとはとても思えない。

しかしこれらは紛れもなく、神風特攻隊員の素顔の一部だ。鹿屋航空基地史料館と知覧特攻平和会館の館内の壁は、彼らの写真で覆われている。いずれの施設も、所在地は九州の鹿児島県だ。

そこには何百人もの特攻隊員がいる。

多くの遺影には、本人の最後の言葉が添えられている。よく見られるのは母親あての手紙の中で、若くして亡くなる不孝を詫(わ)びつつ、誇れる存在になることを約束する内容だ。

彼らの中で最年少の特攻隊員、わずか16歳の田中泰夫2飛曹は、特攻兵器「桜花(おうか)」で出撃した。桜花は基本的には翼のついた爆弾で、車輪はなく、母機から落下する形で発射される。田中2飛曹は1945年5月11日に戦死した。故人の写真が飾られる鹿屋航空基地史料館は、現在の海上自衛隊航空基地の敷地内にある。

史料館の職員によると、田中2飛曹の最後の手紙は保管されていない。しかし他の若き特攻隊員の手紙からは、この年代特有の強気を誇示する態度が見て取れる。

18歳の加藤虎男少尉は、力強い毛筆でこう書いている。「お母さん 大元気で でっかい奴を沈めます」

最年長32歳の特攻隊員、伍井(いつい)芳夫陸軍中佐は1部隊を率い、45年4月1日に知覧基地最初の特攻出撃を行った。

後には妻と、乳児の男の子を含む幼い子ども3人が残った。知覧特攻平和会館が特攻について英文でまとめた冊子「The Mind of the Kamikaze」には、伍井中佐がこの男の子に宛てた最後の手紙が収められている。手紙は館内にも展示されている。

「勉強シテ 日本男子トシテ 陛下ノ御子トシテ 立派ニ成人シテ下サイ」。そう伍井中佐は記した。

冊子によれば、男の子がこの手紙を読むことはなかった。夫の死を知った妻は男の子にあげる母乳が出なくなり、男の子は栄養失調で4カ月後に亡くなった。

躊躇なく任務を受け入れる

知覧特攻平和会館のホールで、晴れた10月の午前中、伍井中佐のような物語に接すればほとんど誰もが目に涙を浮かべる。そこでは30人あまりの聴衆が神風特攻隊に関する説明に耳を傾けていた。日本語が分からなくても、スクリーンに写る画像と他の聴衆が見せる感情だけで、十分に涙はこみ上げてくる。

画像の中に、1匹の子犬をなでる若き特攻隊員の姿がある。多くの人が特攻隊にまつわるものとして最も衝撃的だと見なす画像だ。

そこに写るパイロットたちは17~19歳で、全員が「少年飛行兵」と呼ばれていた。彼らは14歳で訓練に参加。その当時には神風特攻隊はまだ創設されていなかった。

「自分たちが特攻隊のパイロットになるとは知らずにいた公算が極めて大きい」と、The Mind of the Kamikazeは少年たちについて記している。

「それでもひとたび自らの運命を悟れば、彼らは躊躇(ちゅうちょ)することなく任務を受け入れた」「祖国のため、両親のために死ぬのは価値のあることだと信じていた」(同)

子犬と共に写真に写る5人の少年は、45年5月27日に戦死した。彼らを含め、335人の少年飛行兵が神風特攻隊として命を落とした。

知覧特攻平和会館の壁には1人の米国人の写真も展示されている。高野正治(まさじ)大尉だ。

ハワイ生まれの大尉は日本人女性と結婚し、大学進学のため来日。神風特攻隊に召集されたと、The Mind of the Kamikazeは説明する。

本人の最後の手紙には、急降下する機体の絵が描かれている。添えられた文面は「目標ハ敵空母 必中必沈 必ズ轟沈ダ」。

高野大尉には兄弟が3人いた。1人は日本のために戦い、残る2人は米軍に加わって欧州で戦ったという。

米海軍の最も恐るべき敵

「神風」の語は13世紀、大型の台風が日本に襲来した蒙古の船団を沈めた故事にちなむ。日本の防備は手薄だったが、天候が味方したおかげで蒙古との戦闘による壊滅的な被害を免れた。

時代は下り、太平洋での戦況が厳しくなった1944年、爆弾を搭載した航空機で米軍艦に体当たりする「特攻」戦術を、大西瀧治郎海軍中将が創始。米軍の記録によると、日本本土を米艦隊の侵攻から守る最後の手段として導入された。

平和会館の提示する数字では、合計1036人の少年、男性が、陸軍の特攻隊員の一員として戦死した。

海軍では1584人が出撃し、特攻で命を落としている。

陸海軍を合わせた特攻出撃は、1730回を超える。

彼らが米海軍にもたらした損害は、容赦のないものだった。

米海軍歴史センターは、45年4月1日から6月22日までの沖縄戦を同軍史上最も多くの犠牲を出した戦闘と呼んでいる。

米国防総省によると、沖縄戦で死亡した兵士1万2000人のうち約40%は特攻で沈められた米軍艦26隻や、特攻で損傷した168隻に乗艦していた。

45年までに、米軍は自分たちが帝国陸海軍からの容赦ない自爆攻撃にさらされていることを十二分に理解した。これらの軍隊は、強力な軍国主義と天皇への忠誠を原動力に、東南アジア全域で過酷な統治を展開していた。

恐らく最も悪名高い大規模な玉砕攻撃は、その1年前に太平洋のサイパン島で起きた。戦場での勝利が不可能と悟った4000人近くの日本兵は、優位に立つ米軍めがけて捨て身の襲撃に打って出た。

「彼らは、司令官である斎藤義次中将の最後の命令に従った。中将は全軍による突撃を命じて天皇への敬意を表し、その後自決した」。2016年にアトミック・ヘリテージ財団のウェブサイトに投稿された記事にはそうある。

沖縄の地上戦でも、同様の玉砕攻撃が小規模ながら展開された。ただ日本側で生き残ったキンジョウ・シゲアキさんは、当時の心理を形成していたものを以下のように回想したとされる。

当時は1億人の日本国民が最後の1人になるまで戦うことを覚悟していたというのがキンジョウさんの考えだ。誰もが死を覚悟しており、天皇に完全服従するという教えが死を強調する中、命は軽んじられた。天皇のために遠くの島で死ぬのだという思いは、結果的に全く新しい一体感を生んだという。

特攻隊員たちの聞き役

知覧飛行場の特攻隊員たちは、しばしば最後の夜を「富屋食堂」で過ごした。店主の鳥濱トメさんは、よき話し相手として、多くの隊員から信頼される存在になった。中には、軍の検閲を受けない形で家族に送る最後の言葉をトメさんに託す隊員もいた。

トメさんの家族はそうした手紙や遺品の一部を、知覧にある別の小さな博物館で保管している。平和会館から車で少しの距離にあるその施設は、「侍」に対する見識を一段と深める意味で足を延ばす価値がある。

しかしその前に、トメさんの曾孫(ひまご)に当たる鳥濱拳大(けんた)氏が料理長を務める「知覧茶屋」に立ち寄ろう。拳大氏は訪れた人に曾祖母のことや特攻隊員についての話を喜んで聞かせてくれる。

特攻隊員と曾祖母の物語が忘れられないようにするのが重要だと、拳大氏は訪れる人に伝えている。

ただもっと多くの外国人に来てほしいというのが、拳大氏の願いだ。外国から訪れる人の割合は全体のわずか5%で、アジアの国々からの訪問客となるとさらに少なくなるという。

日本人にとって特攻隊員は国を守った人たちと映るが、外国人は彼らを敵と考えると、拳大氏は示唆する。

それでも拳大氏によると、特攻隊員たちの最後の手紙は教訓に満ちている。とりわけ戦争の愚かさと悲劇がそこに表れているという。

全ての教訓を学ぶことができれば、今日の世界はもっと平和になるはずと、拳大氏は語る。

ラストサムライ

鹿屋と知覧の施設は、共に九州南端の鹿児島県に位置する。

特攻隊員が飛び立った第2次大戦時の飛行場がそこにあるのは、沖縄まで短時間で移動できること、燃料も可能な限り節約できることが理由だった。特攻機は台湾やフィリピンにあった日本軍の基地からも出撃している。

しかし鹿児島が特攻隊員にふさわしいのは、そこが日本の武士階級による最後の抵抗の地だったからでもある。

当時の士族たちが明治新政府に対して起こした西南戦争は、伝説的な侍、西郷隆盛の鹿児島・城山での死で幕を閉じた。1877年9月のことだ。

丘陵に陣取ったものの、西郷率いる約400人の軍勢は、新政府軍の1000倍近い兵力に敗れた。

歴史を愛好する旅行者にとっては、希代の侍が最後の抵抗を繰り広げた地でゆっくりと過ごすのもまた価値ある楽しみ方の一つだ。

現地への行き方

知覧特攻平和会館と鹿屋航空基地史料館は九州南端の二つの半島にそれぞれ位置しており、車でのアクセスが最も便利だ。レンタカーは鹿児島市で簡単に利用できる。鹿児島市があるのは2つの半島のうち西の方、薩摩半島だ。

鹿児島にも小規模な商業空港はあるが、空路ならより大きな福岡の国際空港を使う方が訪れやすいかもしれない。福岡から鹿児島までは、九州新幹線で90分の距離。

上位のコメント

freeway10411 時間

ただまあ、神風特攻隊員の精神をオトシメルつもりはまったくないが、 兵役に応じるということは、その時点で「国家に命を捧げた」ようなものだからな。たとえそれが余りにも過酷な「命令」であっても、 立ち向かって行くしかない。 ヨーロッパ戦線で、これから「ノルマンディー上陸」に向かうという上陸用舟艇において、乗船している兵卒は、全員「もう生きて帰れないだろう」と覚悟を決めていたという。 しかも、アメリカ兵においては、 その時点で、自国の安全が脅かされているワケではない。 彼らの心にあったのは、「家族や愛する者を守る」という(小さな)ものではなく、「世界の自由と民主主義を守るのだ」というより崇高な理想のためであった。

A*******11 時間

反日左翼洗脳世代の生き残りピークは「団塊世代」です。彼らの人口構成比はまだ大きいが後10年で激減します。彼らは自身の親が「戦争体験=戦場=空襲」といった実体験をしており、その両親からも「戦争=悪」洗脳を受けてます。 戦争は悪ですが「国防戦争=正義」の正論を「悪の日本軍国主義」の言葉でひとまとめにされてる事に気づけないのです。「侵略戦争」をけしかけられたら「国防戦争」が唯一無二の対応策です。「強盗独裁者」は決して話し合いには応じず「押し切って」来ます。古今東西未来永劫同じ!

「戦艦ミズーリと神風特攻機。 涙が止まらないお話」

2022年9月26日 11:59

 日本人にとっては涙が止まらない話がある。それは1機の神風特攻機が祖国を守るために命をなげうったことです。それと敵である戦艦ミズーリの艦長の計らいで丁重に弔われた事である。

1945年(昭和20年)4月11日、1機の神風特攻機が上記の戦艦ミズーリに向けて突入、右舷船尾付近に衝突した。右舷にがその追突跡が残っている。当時の館長はその神風特攻機の操縦者を正式に(旭日旗に包んで)水葬式を全鑑を上げて実施し、武勲を称えた。

特攻機が積んでいたはずの爆弾は、それまでにすで投下されていたためか、爆発することはありませんでしたが辺り一面は炎に包まれました。乗員たちによってその火もすぐに消し止められました。火災の後、乗員たちがデッキの上で発見したのは、この特攻隊員のご遺体でした。勇敢に自分の使命を全うしたその行為に敬意を表し、艦長は水葬を行う命令を出した。水兵たちは日本の軍艦旗を徹夜で縫い上げ準備をし、翌朝多くの乗員が参加して水葬が行われ、ご遺体は海に静かに戻されました。
 具体的には、特攻攻撃で激突し、零戦のキャノピーを突き破って上半身だけミズーリの艦上に飛び込んできた石野二飛曹を、ウィリアム・キャラハン艦長祖国を守る勇敢な軍人として、五発の弔銃で弔い水葬にしたそうです。

敵艦に突入し氏名が判明した神風特攻隊員

平成14年10月 8日

ミズーリ突入

昭和20年四月11日喜界島南方で戦艦ミズーリ(USS Missouri BB-63)の右舷後部に突入した特攻機は機体の型式および突入時刻から下記石野少尉、または石井少尉と判定される。神風特別攻撃隊神雷部隊第五建武隊(隊長矢口重寿中尉)の零戦五二丙型16機が同日1215鹿屋基地より発進し13機が突入した。その第四班より「1439敵見ユ」「1441敵機発見」と打電。(突入発信はない)ミズーリの日誌には「1446二機目接近」と記録されている。他の同日出撃した各隊各機は1334-1410の間に別の海域で突入を終えていた。
石野節雄 二等飛行兵曹(当時)  乙(特)飛 19歳 岡山県和気町  没後少尉 四班第4番機
石井兼吉 二等飛行兵曹(当時)  乙(特)飛 22歳 千葉県松戸市 没後少尉  四班第3番機
 ミズーリ艦長ウイリアム・キャラハン大佐は翌日、乗員大半の反対を押切り、ただ1人の遺体に対して水葬礼をおこなった。
その五六年後の平成13年4月12日、真珠湾ミズーリ艦上の神風機突入の損傷が残る後甲板で、第五建武隊遺族および米海軍軍人のキャラバン艦長長男ほか日米双方が参列し、儀仗兵が弔銃を発射して追悼式が施行された。
調査者
①エドウィン・カワハラ氏 (ハワイ在住二世)
②佐藤健輔氏(ハワイ在住、元・戦艦武蔵乗組水兵)
③可知 晃氏       (藤沢市在住)
ミズーリに特攻機が超低空で接近し命中、白煙次いで爆発の黒煙があがる光景を撮影した16ミリフィルムが残っている。この経緯をNHKが「神風特攻隊・ミズーリ突入の軌跡」として平成13年8月3日衛星第一放送で放映した。

My opinion

宗教などの違いがあれど、人間としての弔いの精神に感動・感激した。
観光旅行にハワイに行ったら、常夏の行楽地に浮かれることなく、日本兵が生死をかけて戦い命を落としたことを知るべきであろう。
パラオ諸島にも数年前に行ったが、そこにも、日本兵の英霊が眠っていた。

改めて、今の日本の平和の礎となった英霊に改めて安らかに眠らんことを願う。


参考文献・参考資料

特攻隊員の遺書に見る、米軍が恐れた若きパイロットたちの意外な素顔 (msn.com)

政治(歴史)講座ⅴ385「真珠湾太平洋航空博物館の展示物」|tsukasa_tamura (note.com)

政治(歴史)講座ⅴ384「戦艦ミズーリと神風特攻機。 涙が止まらないお話」|tsukasa_tamura (note.com)

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