政治講座v1815「中国に女帝が誕生か?」
歴史は繰り返されるというが、本当である。
近年では毛沢東の妻の江青が有名であろう。もっと歴史をさかのぼれば西太后が有名であろう。もっと遡れば、則天武后も女帝として表舞台で活躍した。今回はまた中国に女帝が誕生しそうな雲行きの報道記事を紹介する。
皇紀2684年6月13日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
【中国】誰も逆らえない「女帝」習近平夫人の軍幹部就任で生じる致命的な“軋轢”
アサ芸biz の意見
香港紙「星島日報」が、習近平主席夫人である彭麗媛氏が共産党中央軍事委員会の幹部審査評議委員会専任委員に就任したとみられると報じたのは5月5日のこと。
報道によれば、彭氏が軍関連の学校などを訪問し、上層部の人材育成を視察する姿がSNSにアップされ、その写真の肩書にハッキリとその役職が記されていたというのである。
彭氏は80年代初頭に「在希望的田野上」などの曲で一世を風靡した中国の元国民的歌手。87年に当時厦門副市長だった習氏と結婚したが、22歳で人民解放軍総政治部歌舞団に入団した際に中国共産党党員となり、ファーストレディであると同時に、人民解放軍での階級は少将という肩書も持っていたとされる。
「歌手時代、中国では宋祖英や殷秀梅などと同様、民族歌謡・愛国歌謡の大御所として知られ、日本のメディアでも『中国の美空ひばり』と紹介されたこともあります」(中国ウオッチャー)
人民解放軍総政治部の歌舞団団長時代は、団を率い東京と札幌で中国歌劇「木蘭詩篇」公演(2009年11月)を開催。彭氏自身が総芸術監督を務め話題になったが、17年には解放軍芸術学院院長から退いた、と伝えられていた。
「今回、彭氏が就任したとされる『中央軍事委員会・幹部審査評議委員会』は、習近平氏の肝いりで16年10月に設立されたもので、『軍事委員会主席責任制を貫徹させるための重要措置』をスローガンに謳っているように、文字通り習氏自らが軍人事掌握のための要とする機関。情報筋によれば、彭氏は翌17年から同上級評議員に就任。このポストは、軍の将校などの昇進に際し承認を与えるもので、したがって権限は絶対的。つまり、彭氏らによるツルの一声で人事がひっくり返ることもある。そんな軍の人事権行使に影響力を持つセクションの中の一人に実の妻を起用し、今度は専任委員に就任させたわけですからね。『星島日報』の報道を受け専門家の間では、これで人民解放軍は夫婦による『個人商店』により思いのままに操られる可能性が強くなった、との憶測も飛び交っています」(同)
近年の習政権下では、汚職疑惑などで多数の軍高官が粛清されており、すでに夫人の関与があったとも考えられるのだが…。
「中国経済が低迷の一途をたどる中、軍事面でも対米、対台湾問題と、厄介な問題が山積し、必ずしも習氏と軍部との関係が風通しのいいものとは言い難い状況。加えて軍の幹部の中には習氏に対し『軍のことを知らない政治屋に何がわかるか』と、敵対心を持っている者も少なくないといわれます。そんなことから夫人が政界に物申したこともあったのですが、さすがに軍部に口を出すことはなかった。報道が事実であれば、習氏はそんな状況お構いなしに妻を最重要ポストに就けたわけですから、今後、軍部との間でさらなる軋轢が生じるのでは」(同)
ファーストレディー、彭麗媛氏の言動が注目される。
(灯倫太郎)
世界で最も多くの人を殺戮した女性!? 毛沢東の妻・江青
投稿者: 村上俊樹
2023/7/8
今回の記事では、毛沢東の妻である江青の人生について紹介します。
1914年3月19日、江青は山東省諸城県に生まれました。ちょうど第一次世界大戦が始まった年になります。学生時代、彼女は共産主義に共鳴。1933年に中国共産党に入党しました。このとき17歳です。江青は女優としても活躍し、多くの男性と激しい交友関係を繰り返しています。
毛沢東と不倫関係の末、結婚
共産党員でありながら女優という特異な経歴を持つ江青は、毛沢東との出会いによって人生の大きな転機を迎えます。
江青が25歳のときに毛沢東(45歳)と出会い、交際が始まりました。当時の毛沢東は賀子珍(3番目の夫人)とすでに結婚しており、江青とは不倫関係でした。
毛沢東は賀子珍と離婚して江青と結婚をすることを決めましたが、毛沢東の部下である周恩来らは猛反対しました。
結婚する条件として「江青を政治の表舞台に立たせない」という約束を、毛沢東と部下たちは交わします。そして日中戦争の真っ最中である1939年、江青は毛沢東と結婚しました。
約束は果たされなかった…
1949年、毛沢東は中華人民共和国を建国します。そして江青はファーストレディーとして、毛沢東の横を堂々と歩いていました。部下との約束は反故にされたのです。
さらに江青は同じ共産主義を掲げるルーマニアの独裁者、チャウシェスク夫妻とも親交を深めました。夫妻に対して、政治的なアドバイスも行っています。
チャウシェスクの妻・エレナに関しては以前の記事「銃殺された独裁者チャウシェスクの妻・エレナ 【愚かな人口増加政策が招いたチャウシェスクの落とし子たち】」を参照していただけると、幸いです。
江青は嫉妬深い性格だったと言われており、もともと女優だった彼女が演劇界を深く憎んでいたことは明らかでした。
その嫉妬深さから、自分より評価の高かった女優たちを次々と拘束し、殺害しました。その結果、中国の演劇界は絶滅寸前に追い込まれています。
「大躍進」の大失敗によって、トップを降りる毛沢東
1958年、毛沢東は「大躍進」政策を開始しました。国民の生活水準を向上させ、中華人民共和国を世界の主要国家にすることを目標として掲げたのです。
「大躍進」政策では「人民公社」による農業生産の向上と、鋼鉄生産の増産による重工業の発展が掲げられました。急速な工業化と農業の集団化を目指しましたが、逆に経済は混乱し、大失敗に終わります。
大規模な飢餓を引き起こし、数千万人が餓死する人災となりました。諸説ありますが、3000万人から5000万人が死亡したといわれています。
1959年4月、毛沢東は「大躍進」の責任を取って、国家主席を劉少奇に譲ります。劉少奇は鄧小平らと協力し、社会主義経済の一部を改めました。
生産請負制を認めるなど、資本主義の要素を取り入れた「経済調整」政策を採用したのです。
「プロレタリア文化大革命(文革)」に加担する江青
劉少奇の改革が功を奏して、経済が順調に回復するなか、毛沢東は再び権力を獲得するため動き出します。
1966年、毛沢東は「(プロレタリア)文化大革命(文革)」を発動。江青は「四人組」の1人として、毛沢東と共に「文化大革命」を主導しています。
文化大革命は、現体制や大人に不満を持つ若者を利用した運動です。「紅衛兵」として組織された学生が「造反有理(反抗するには道理がある)」と叫び、劉少奇体制に対する反対運動を起こしました。
この運動は多くの若者を取り込み、また毛沢東がインフルエンサー的役割を果たしたため、次第に過激化・先鋭化していきます。
若者たちは共産党や政権の幹部を襲撃するようになり、過激化した運動に抑えることができなくなった劉少奇は失脚に追い込まれます。毛沢東と文革派は再び権力を奪い返したのです。
目的を達成した毛沢東にとって紅衛兵はもう用済みです。教育も受けていない彼らは農村に強制移住させられ、過酷な労働によって命を落としました。
「大躍進」と「文化大革命」の犠牲者は…
この文化大革命は1970年代前半まで続きます。一連の運動によって多くの命が犠牲になりました。一説には1000万人から2000万人とされています。
「大躍進」よりも人数は少ないですが、犠牲者の大半は大学教授や教師、官僚などのエリート層になります。未来の中国を担う人材であり、社会的なダメージは計り知れないものでした。
1976年、毛沢東はついに死亡します。後ろ盾を失った江青は、逮捕・投獄されました。
毛沢東が主導した「大躍進」「文化大革命」によって、のべ4000万人〜7000万人の命が失われたとされています。彼の政治に積極的に関わった江青は、世界でもっとも人を殺した悪女だと解釈できるかもしれません。
1984年に仮釈放された江青ですが、1991年、自ら命を絶ちました。77歳でした。
その嫉妬深い性格が、逆に自分自身を滅ぼしてしまったのかもしれません。
終わりに
現時点から振り返ると「大躍進」と「文化大革命」は、歴史上もっとも愚かな出来事であると言っていいでしょう。
しかし冷戦時代だった当時は、共産主義に対してまだ希望があった時代でした。日本の左派系メディアも「文化大革命」を好意的に伝えています。日本の東大闘争(学生運動)においても、バリケード封鎖された東大の門に「造反有理」のスローガンが掲げられています。
パリの「五月革命」やベトナム戦争の反戦運動など、毛沢東の思想は世界中の学生に大きな影響を与えていたのです。
中国共産党は「大躍進」と「文化大革命」の悲劇を伝えていないため、中国国内では中国史をまったく知らない若者が増えています。
日本に対して「歴史を直視せよ」と求める中国政府ですか、自国の「負の歴史」を直視できていないのです。
参考文献:池上彰『そうだったのか! 現代史』集英社、2007年3月
叡智も残虐性も超弩級──中国史上唯一の女帝「則天武后」の正体
古代中国から三国志の時代を経て最後の皇帝を奉じた清の時代まで、中国の王朝をめぐる歴史の雄大な流れには、私たちの心を掴んで放さない魅惑的な物語が詰まっています。人情にあふれ高潔な武人たちや、戦を経て次々と代替わりしていく支配者、それに伴って移り変わる文化が織りなすその世界観の、なんと華やかで鮮やかなことか。
ところで、その中国の長い歴史の中で「三大悪女」とされる女性がいることをご存じの方も多いでしょう。ひとりは、高祖劉邦の妻・呂后(りょこう。呂雉〈りょち〉)、もうひとりは清王朝末期に実権を握っていた西太后(せいたいこう、せいたいごう)、最後のひとりは、今回紹介する本のタイトルにもなった則天武后(そくてんぶこう)です。彼女はどのような人生を歩み、当時の王朝で何を成し遂げた人物だったのでしょうか。
2016.11.20
悪女のゆえん──政敵を蹴落とすための血なまぐさい所行
1984年に公開された中国と香港の合作映画「西太后」のなかで、実権を握るようになったあと、両手両足を切断して甕の中で飼い殺しにしている恋敵を、主人公である西太后が満足そうに眺める衝撃的なシーンがあります。
西太后も悪女として名高いのですが、このエピソードは事実ではありません。同じく悪女として名を連ねる呂后や則天武后の逸話を借りて、西太后が権力にたどり着くまでの残虐性を前面に押し出そうという映画的演出でした。
残虐性の演出として引き合いに出される則天武后は、実際にどんな悪行を行ったのでしょうか。
ライバルを蹴落とすための、壮絶なエピソードをいくつか紹介しましょう。武とは則天武后の姓で、照とは名、また、昭儀とは後宮での地位を表し、正二品で、当時の武照をいいます。
─ある日のことであった。王皇后が武昭儀の部屋を訪れた。奥向きをおさめる立場の者として、後宮の女官の出産を祝うためにきたのであるが、たまたま武照は不在であった。否、「皇后陛下のお成り」との先ぶれを聞いて、こっそり隣室に身を隠したのが真実であろう。王氏は部屋に入ったが、だれもおらず、赤ん坊だけがベッドに寝かされていた。王氏はその無邪気でかわいらしい顔をみて、思わず抱きあげ、頬ずりをした。しばらくあやしたあと、武照がもどらないため部屋をあとにしたのであった。
それよりややたって、武昭儀の部屋からにわかに悲鳴があがった。皇帝がやってきたため、赤ん坊をみせようと着ているものをとったところ、その子が冷たくなっていたのである。武照は驚き、左右の侍女に問いつめると、
「ついいましがた、皇后様がいらっしゃいました」
との答え。それを聞いた皇帝は、怒りで身をふるわせた。
「皇后のやつめが、朕の娘を殺したのだ」
じつはこれは、武照が十分計算してしくんだ罠であった。武照は皇后が部屋を出ていくと、隣室からそっともどり、自分の娘を絞め殺した。そのあと布団を上にかけ、だれにも気づかれないように外に出た。そして、あたかも王氏が、皇帝と武照の関係を憎むあまり、その子に手をだした、と解釈されるように仕向けた。──
(講談社学術文庫『則天武后』P.120より)
これを機に、王皇后は皇后の座から追い落とされることとなりました。自分が皇后になるためにお腹を痛めて産んだ我が子ですら手に掛ける、武后の成り上がることへのすさまじい執念を感じます。
王皇后と火花を散らしていた蕭(しょう)という淑妃(しゅくひ=後宮の最高位の女官)がいましたが、彼女も同じように力を失い、王皇后ともども廃位されました。しかも、王氏と蕭氏は廃位の1年以上前から暗い奥の部屋に幽閉されていたのです。高貴な彼女たちを徹底的に貶めて、狂い死にさせようと考えた武后によるものでした。
彼女らの身を案じた皇帝が幽閉場所まで出向いていったことに腹を立てた武后は、とうとう彼女らを処刑することにします。王氏と蕭氏を鞭打ちの刑に処したあと、その腕と足を切断させ、酒の甕のなかに首だけ出したまま放り込んだのです。
これが、映画「西太后」で使われたエピソードの元になるわけですが、武后のこの所行は、同じく悪女と名高い漢の呂后が、夫・高祖の愛妾・戚(せき)夫人の手足を切断し、厠に投げ入れて辱めたエピソードを意識していたのでしょう。
武照の上昇志向はどこから来たのか
武照が宮中にあがったのは、彼女が14歳のときでした。
武照は亡くなった父の後妻の娘でした。父の先妻には2人の息子がおり、勝ち気で明るく、どんなことにもめげない武照は、2人の兄に反発していじめられ、つらくあたられたそうです。そうしたなかで彼女は、いつかきっと仕返しをしてやると思ったことでしょう。逆転した立場から、彼らを見返してやれるかもしれないとも。
後宮にあがって与えられたのは才人(さいじん)という地位で、けっして高い地位ではありませんでした。加えて、当時の太宗皇帝は39歳、精力さかんな時期ではあり、また武照も見目麗しいことで宮中に迎えられましたが、太宗はあまり武照を近づけることはなかったようです。
しかし、あるとき彼女に運気が巡ってきます。太宗は52歳になったころから体調をくずしはじめ、床に伏せることが多くなってきました。宮中生活13年を迎えた武照はまだ20代、宮中で宦官以外に男は太宗しかいないなかで、父太宗の看病のために詰めている皇太子の李治の心を射止めることに成功したのです。
次期皇帝である高宗李治の寵愛を受けるようになった武照は、才人から昭儀、そして皇后となり、短期間の皇太后を経て自らが皇帝の地位につくことになります。2000年以上にわたる中華帝国のなかで唯一の女帝(武則天)です。
皇后に至るまでの間に、前述のように王皇后と蕭淑妃を追い落とし、皇后となったあとも体の弱い高宗に代わって政治を執るまでに至るわけですが、どんなチャンスも見逃さず、自分の地位向上のためにはどんな手も使う、そうした執念と機微、総合的なバイタリティはどこから来たのでしょうか。
ものの本や映画、ドラマなどで知られるように、中国王朝の宮中は女同士のすさまじい戦いが繰り広げられています。まだ14歳だった彼女がつらい家庭環境にあって「見返してやりたい」と思ったのが原点かもしれませんし、やらなければやられる女の戦場にあって、美しく、もともと長けていた政治的才能が花開き、より先鋭化していったのかもしれません。
則天武后の活躍した唐の時代は、女性が比較的自由に表舞台に出てきた時代でもあるのだそうです。唐の時代が終わったあとには、女性の足の成長を止める纏足(てんそく)というグロテスクな習俗が始まり、長く続きます。彼女の持っていた才能と時代、置かれた状況が、絶妙に影響し合って「則天武后」という人間の生き様を後押ししたのではないでしょうか。
近年になって評価され始めた則天武后の政治力
血なまぐさい逸話ばかりで語られることの多い則天武后ですが、近年、彼女の実績を積極的に評価する動きが出ているようです。
彼女が政治に関わるようになってから、さまざまな制度改革があったようです。そのうちのひとつのエピソードが、こちらの記事『「日本」はいつ生まれたのか? 古事記にないのはなぜか? 国号の謎を追う』で紹介している『「日本」 国号の由来と歴史』にありました。それまでの日本は、中国から「倭」と呼ばれていたのを、則天武后が「日本」と改めたと書かれているのです。
本書『則天武后』には、まだ年若い則天武后が宮中に入るころの時代背景から、彼女が皇后に成り上がり、病弱な皇帝に代わって、あるいは、後に自分が皇帝となって行うさまが、情感たっぷりに描かれています。
臨場感あふれる激動の時代、唯一の女性皇帝であった則天武后が行ったさまざまな知略、国外国内政治とともにあった彼女の生涯を、ぜひ堪能してみてください。
著:氣賀澤保規
男性中心の秩序に挑み、自力で頂点を極め大唐帝国を奪った女性、則天武后。彼女は何を目指し、また何が彼女を生み出したのか。
大唐帝国繁栄の礎を築いた冷徹にして情熱的な生涯とその時代を、学術的知見に基づいて鮮やかに描き出す。
参考文献・参考資料
【中国】誰も逆らえない「女帝」習近平夫人の軍幹部就任で生じる致命的な“軋轢” (msn.com)
世界で最も多くの人を殺戮した女性!? 毛沢東の妻・江青 - 草の実堂 (kusanomido.com)
叡智も残虐性も超弩級──中国史上唯一の女帝「則天武后」の正体|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)
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