政治講座ⅴ1103「中国の経済発展と期待外れに終わるインド」
インドが中国の人口を抜いて世界一になったという情報と次はインドの時代だともてはやす専門家もいる。しかし、なぜ中国がGDP世界第2位となり、世界の工場となり得たのかという命題から解説が必要であろう。中国は日本に近く、歴史的に中国とは漢字文化を同じにする。今の中国の中で使われている言葉は、日本語が70%であることに注目頂きたい。中華人民共和国は日本語で構成されている。西欧の言葉を先人は漢字を使い日本語に翻訳していった。そして新しい言葉を漢字の組み合わせにより理解しやすい造語を作ったのである。中国の指導者は日本に留学した者も多い。中華民国を作った孫文などがその例である。敗戦で焼け野原から復活して経済大国に返り咲いた日本を見た中国人は勇気をもらったのではないだろうか。もう一つ共産主義特有の国有企業主体から私企業を認めて開放経済路線が功を奏した結果であろう。
韓国への日本からの経済支援で漢江の奇跡と言われる経済復興を果たした。同様に中国に対しても改革開放路線で松下幸之助氏が鄧小平氏に三顧の礼で迎えられて中国に企業進出したのである。中国に対するODA支援は残念ながら軍備に使われて、現在の覇権国家になったのである。
政治的には田中角栄氏の日中国交回復から始まるが、台湾の中華民国と国交を中華人民共和国に切り替えた。そのような経緯から相当中国に経済支援をしたのである。翻って、インドに経済支援をしている国はあるであろうか。それは無いのである。今回は中国の経済発展の軌跡とインドの地政学的観点で解説する報道記事を紹介する。
皇紀2683年5月23日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
「人口世界一」インドが経済大国になるという幻想 製造業が弱すぎ「人口ボーナス」を生かせない
武居 秀典 によるストーリー • 1 時間前
広島で開催中の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)には、インドのモディ首相も招待されています。5月21日には、インドと日本、アメリカ、オーストラリアの協力枠組みである「クアッド」の首脳会合が開かれることが報じられています。
インドに対しては、日本やアメリカのパートナーとしての期待が高まる一方で、ロシアによるウクライナ侵攻への対応や気候変動問題などでは先進国と異なる立場を取っています。国際政治上の影響力の増大と相まって、インドの動向には、かつてないほど注目が集まっています。
インドは中国に続くことができるのか
そのインドが、今年半ばにも中国を抜いて、人口世界一になるという予測が国連から発表されました。これを受け、インドの経済成長の加速にも期待が高まっています。しかし、本当に、インドは、中国に続くような経済大国になるのでしょうか。筆者はかなり懐疑的にみています。
人口は、その国の経済力や成長力を左右する大きな要因です。人口を見る際には、その「規模」に目が行きがちですが、「先行き」や「質」も重要です。
人口の「規模」は、国の経済力の大きさにつながります。国民の豊かさを示す一人当たりGDPをみると、インドは世界145位ですが、人口が多いので、国全体のGDP総額は世界第5位です。経済力が大きければ、国際社会における存在感や発言力も大きくなります。
「先行き」は、今後の増減見込みです。国連の推計によれば、インドの人口は、2060年半ばに約17億人に達するまで増加が続くので、あと40年近く、経済成長への貢献が期待できます。
そして「質」とは、年齢構成です。経済成長の原動力となるのは、15歳から64歳までの「生産年齢人口」です。全人口に占めるこの年齢層の割合が高まれば、経済に活力が生まれ、成長が促されます。
「生産年齢人口」の割合が上昇し、かつ、「生産年齢人口」が「非生産年齢人口(15歳未満及び65歳以上)」の2倍以上となる期間を「人口ボーナス期」と呼び、特に経済成長が加速すると言われています。インドの「人口ボーナス期」は、2017年に始まり、2030年前半まで続くとみられています。
このように経済との関係でみると、インドの人口は、「規模」のみならず、「先行き」「質」も完璧とも言える状況です。今後、経済成長の加速が期待されるのも頷けます。
人口要因だけでは経済成長はしない
しかし、ここで考えなければならないのは、人口要因が良好であれば、経済成長が保証されるのかということです。答えは「No」で、いくら追い風(良好な人口要因)が吹いても、その風を捉える「帆」をきちんと張らなければ、船は進みません(経済成長しない)。
では、その「帆」とは何でしょうか。「帆」は、良好な人口要因を生かす適切な経済政策であり、最も重要な点は、生産年齢人口の増加分に見合う「雇用」を生み出すことです。
インドでは、生産年齢人口が毎年1000万人規模で増えています。労働参加率等を考慮すると、最低でも毎年500万人以上の雇用が増えなければ、失業者が増え、経済成長どころか、社会不安にもつながりかねません。
さらに言えば、その雇用も高い付加価値を生み出す産業で増えることが求められます。
サービス業などは、多くの雇用を吸収できますが、国民の所得を十分に増やすだけの「付加価値」を生み出すことが難しい分野です。現在のインドの一人当たりGDPは約2500ドルしかなく、この発展段階の国では、高い付加価値を生み出すことができる「製造業」の発展が成長のカギとなります。
人口が多い国というと、「製造業」を飛び越えて、消費市場を狙った「サービス産業」に目が行きがちです。近年では筆者が駐在していた時のミャンマーがそうでした。
ミャンマーは、2011年に、それまでの軍事政権による鎖国政策から、改革開放路線に舵を切り、日本の政府もメディアも企業も「人口5000万人を擁する最後のフロンティア」とはやしたて、消費市場を狙った投資が相次ぎました。
しかし、当時のミャンマーの一人当たりGDPは1000ドル程度です。開国当初は、これまでの軍事政権下で買うものがなく、使おうにも使えなかった貯蓄を取り崩し、一時的に消費も盛り上がりましたが、同国には、製造業、特に、外貨を稼げる輸出競争力のある製造業がほとんどなかったため、国民の所得は伸び悩み、消費も期待したほど増えませんでした。
残念ながら、ミャンマーは2021年に軍事政権に戻ってしまいましたが、クーデターが起こらなかったとしても、製造業強化に重点を置いた政策がなければ、国の成長も実現できなかったのではないかと筆者は考えています。
ミャンマーとは程度は異なりますが、現在のインドも、製造業がそれほど強くありません。インドのGDPに占める製造業の割合(付加価値ベース)は15%程度です。中国は26%、タイやベトナムなども同水準です。
中国の賃金が上昇する中、同国製造業の移転先として、ASEAN諸国は候補にあがりますが、規模が大きく、吸収力があるはずのインドという声はあまり聞きません。ここからもインド製造業の弱さがうかがえます。
インドと中国で違う外資への対応
インド政府も外資誘致を政策として掲げ、外資の流入も増えていますが、サービス業向けが多く、製造業向けは十分とは言えません。国内に零細企業が多く、国内産業保護の意識が強いことも影響しています。
中国は1994年に始まった人口ボーナス期にタイミングをあわせ、2001年にWTOに加盟し、製造業を中心に積極的に外資を導入しました。人口ボーナス期は2010年に終了しましたが、この好機を生かし、「世界の製造工場」の地位を確立し高成長を実現したことは偶然ではなく、理にかなった政策の成果と言えます。
インドには経済・社会構造上の課題も数多くあります。インフラが十分に整備されておらず、また、通関の手続きなどにも時間と手間がかかります。税制が複雑かつ曖昧で、進出した外国企業が何年も経ってから多額の追徴を課せられ、長期間にわたる裁判対応など過剰な労力を強いられることも多々あります。
モディ政権誕生からすでに9年が経ちますが、改革はまだ道半ばです。今後、同政権が、製造業強化を含め、人口ボーナス期を最大限生かせる政策や改革を実行できるかが注目されます。残された時間はそれほど長くありません。
中国発展の要因となった「改革開放」とは?わかりやすく解説!
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毛沢東の死と改革開放の始まり
1976年に毛沢東が亡くなると文化大革命は正式に終結。「四人組」を始めとする文化大革命を主導した人たちが次々と失脚していき、数年前に復権していた鄧小平が権力を掌握し、国家主席ではないものの事実上中国の最高指導者となったのでした。
こうして権力を握っていくようになった鄧小平でしたが、最大の課題が経済でした。
毛沢東の大躍進政策と文化大革命によって経済は破綻寸前に追い込まれており、停滞への焦りがあったと思われます。
鄧小平は一応友好関係を築き始めていた日本とアメリカに訪問。国連に中国代表団長としてニューヨークを訪れたときには時にはアメリカの繁栄を見て仰天。さらに日本に至ってはいつの間にか戦後復興・高度成長を経て世界第2位の経済大国になっているのですから驚いたことでしょう。
鄧小平はこの経験から国内でドタバタを繰り返しているその時期を取り戻すために経済改革を行うことを決心。それこそが改革開放だったのです。
これは「政府主導で発展している自由経済を導入してやるから、その間お前らの自由はナシだ」という開発独裁と同じ考えで、アジアの新興国ではこの開発独裁を行ったことで経済成長を成し遂げた韓国やシンガポールなどを見て中国でも同じことができると踏んだのでしょうね。
改革開放の内容
というわけで始まった改革開放政策。次は中国がどのようにして発展していったのかについてみていきましょう。
鄧小平は「先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよい」という鄧小平理論を展開。これが今の中国の基盤となっている考え方ですが、さらにこれに基づいて「工業、農業、国防、科学技術」という4部門での近代化(四つの近代化)を掲げていくようになりました。
これによって農村部では毛沢東時代の代名詞となっていた人民公社が解体。農民に対して経営の権利を保障して生産請負責任制という新たな農業政策も始まった。これは毛沢東の大躍進政策みたいに共産党が設定したノルマだけを作るのではなく、自由に農作物をつくらせて生産物を自由処分できるという農業への市場原理の導入をおこないました。ちなみにこの頃から中国の農民には万元戸(大金持ち)という人たちも出現。社会主義国家なのにお金持ちが生まれるなんてなんだか矛盾していますね。
都市の開放
さらに都市部ではこれまで導入することはなかった外資の獲得のために積極的に外資企業を誘致していくようになります。
1984年には資本主義国家に近く、また外資系企業を呼び込むために4つの経済特区(北から廈門、汕頭、深圳、珠海)と14の対外開放都市(大連、秦皇島、天津、煙台、青島、連雲港、南通、上海、寧波、温州、福州、広州、湛江、北海)を設置。関税・法人税・所得税などでの優遇措置や企業としての経営自主権などを保障して次々と誘致に成功しました。
もちろんこのやり方は中国に莫大な利益をもたらすことになるのですが、誘致された企業からしても中国は13億人以上の市場と安価な労働力などといった魅力を持った国でありまさしくwinwinの関係だったのです。
その結果改革開放政策によって中国はGDPの平均成長率を9%という高い水準で保ち、中国の経済発展が行われたのでした。
改革開放後の中国
その後も鄧小平は中国の最高指導者として君臨していきいちおう1989年の天安門事件を境に表舞台から身を引くことになるのですが、この時に改革開放を凝縮した南巡講話を発表します。
この講話は「資本主義にも計画はあるのだから、社会主義に市場があってもいいじゃないか。社会主義でも資本主義でも手段はどうあれ最終的にみんな平等に豊かになればそれでいい」といもの。
この講話はすぐさま鄧小平理論として共産党で採択されることになり、ここから始まったのが社会主義市場経済。社会主義市場経済とは一応社会主義国の経済体制を保ちながらそれと同時に株式会社と私有財産制も発展させるという社会主義なのか資本主義なのかよくわからない制度です。
そして中国は天安門事件のいざこざがありながらもWTO(世界貿易機関)への加盟を実現します。
平等をめざす社会主義国が国際的な貿易機関に参加することはまさしく前代未聞。でも時代は1990年代。もう冷戦は終わりソ連も崩壊してしまったという状況で中国のことわざにもあるように「白い猫も黒い猫もえさをとる猫がいい猫」という理念となっているのがよくわかります。
しかし社会主義市場経済では国有企業の事実上の民営化を行うなどどっからどう見ても資本主義にしか見えない状態となってしまったのです。
改革開放の黒い影
改革開放以降、農業生産額が増加して農家所得も徐々に向上してはいますが、これがいわゆる格差問題へとつながっていくようになります。例えば沿海都市での急速な工業発展や住民の所得増加には追いつけなくなり、都市と農村の格差はなんと10倍に拡大。
さらには農村から都市部へ多くの労働者が豊かさを求め出稼ぎして低賃金の日雇いの仕事に従事することによって労働環境が劣悪なものになっていきました。もちろん中国からしたら格差をなくすために行った社会主義が根本から破綻することにつながるためなんとかしてこの状態をなくさなければなりません。中国政府は内陸部の開発を推し進めるために西部大開発が実施されています。
さらには農業を大切にするために農業税を約2600年ぶりに撤廃されることになりました。これはこれまでの農業中心から商業中心になる画期的な出来事でもあり、毛沢東の考えを根本から覆すものでした。
しかし、この結果地方では汚職が横行。農民の不満が高まっていき、今の習近平国家主席が一所懸命につぶしにかかっているがそれでもやまないというのが現実なのです。
各地に影響を与えた改革開放
ソ連が崩壊した後社会主義の親玉と目されていた中国が実質的に社会主義を放棄したも同然となり、アジア一帯の社会主義国家や社会主義政権に衝撃を与えることになりました。
その一方で中国が著しい経済発展を遂げていることも他の社会主義国にも影響を与え、ベトナムでは1986年から親中派のチュオン・チンとファム・ヴァン・ドンとグエン・ヴァン・リンがこれまでの中越対立からなんとかして関係を立て直していき、中国の改革開放に倣ったドイモイ(刷新)政策を推し進めることになります。
ベトナムはこれまでの社会主義経済を中国と同じく大きく転換させて、長年の敵国であったアメリカとも国交を正常化。外国の投資を受け入れていき、中国に次いで経済発展を推し進めていった社会主義国家となっていきました。
また中国と仲良しの北朝鮮でも1991年に金日成が国を訪問した際に鄧小平から改革開放を迫られたことで中国に倣った改革を行うことを決意。帰国した直後に北朝鮮の国内に羅津・先鋒経済貿易地帯の設置を決定して中国の特別区と同じような制度を整えて外国資本を取り入れようとしました。
さらに金日成は1994年から2年間かけて農業や軽工業の発展を推し進めていく経済政策を打ち出していくのですが、肝心の1994年に金日成が死去。後を継いだ金正日は自己保身を優先したことによって苦難の行軍を引き起こし、経済を低迷させて改革開放は挫折しました。
中国、なぜ「異形の大国」? 成長しても民主化進まず
2019年9月16日 5:40
中国が建国70年になるそうね。天安門事件から30年の節目でもあるのね。暮らしは豊かになったのかな? 「異形の大国」と呼ばれることがあるそうだけど、どうしてなの?
中国の現状について、飯尾庸子さん(54)と洲崎理差子さん(43)が飯野克彦編集委員に話を聞いた。
――世界第2位の経済大国ですよね。
中国の名目国内総生産(GDP)が日本を抜いたのは2010年。今は日本の3倍近い規模です。建国当初と比べると、経済規模は膨大になりました。国民の可処分所得は建国時の567倍に。1億元(約15億円)以上の資産を持つ世帯がおよそ11万に上るという調査もあります。
経済は巨大ですが、発展途上国です。先進国クラブといわれる経済協力開発機構(OECD)の分類では、先進国の一歩手前の「上位中所得国」で、政府開発援助(ODA)を受け取れます。14億人の人口で割ると1人あたりの経済規模は1万ドル弱と、日本の4分の1程度だからです。
とはいえ、広域経済構想「一帯一路」の下で、中国はアジアやアフリカの発展途上国を経済支援する側に回っています。もうそろそろ発展途上国とはいえないのではないかとの声も出ています。
――先進国にならないのですか?
中国共産党政権は「先進国入りを目指す」とは言いません。むしろ世界最大の発展途上国だと強調しています。1971年に中華人民共和国が中華民国に代わって国連の一員となった最大の原動力は途上国の票でした。世界の圧倒的多数を占める途上国の一員でいるほうが、何かと有利だと考えている面があります。
先進国となると国際的責任が重くなり、二酸化炭素(CO2)の排出量など守るべきルールが出てきます。対外援助も、OECDは相手国の債務負担が重くなりすぎないようにしたり、人権侵害や環境破壊につながらないようにしたりする基準を設けています。発展途上国でいれば縛られずにすむのです。
――「異形の大国」と呼ばれることがあるそうですね。
一党独裁体制なので、民主主義の先進国からみると違和感を覚える点があります。共産党政権は工業と農業、科学技術、国防の「4つの近代化」を目指し、大きな成果をあげてきました。一方、70年代末に民主活動家の魏京生氏が「第5の近代化」として訴えた民主化は、40年あまりたっても実現していません。
ダライ・ラマ亡命につながった59年のチベット動乱や60~70年代の文化大革命、89年の天安門事件、99年の法輪功弾圧、2009年にウイグル人デモ隊と当局が衝突したウルムチ騒乱と、たびたび国民を武力で抑えつけています。
最近はIT(情報技術)の進歩で個人情報が詳細に把握されやすくなりました。キャッシュレス決済のデータで生活や行動がつかめます。監視カメラの顔認識などの性能も上がっています。
豊かになった半面、格差は大きいのが実情です。都市住民と農村住民は戸籍が違い、出稼ぎにきた農民は社会保障や子供の教育も十分に受けられません。農村出身者を強引に立ち退かせて都市開発するなど、社会の不平等が効率的な発展につながっている皮肉な側面もあります。
経済が発展すれば民主化する、との期待から、米国はじめ先進国は技術移転などの支援をしてきました。でも最近は、中国はむしろ新たな覇権国家を目指している、といった見方が強くなっています。さながら文明の衝突の様相も呈していて、これが米中貿易戦争の背景ともいえます。
――民主化の可能性はないのでしょうか?
旧ソ連のゴルバチョフ元書記長や台湾の李登輝元総統のように、政権内部から改革者が現れて民主化した国があります。中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席は1953年生まれ。共産党総書記の任期は2022年までです。もしかすると将来は、党内部から改革の機運が生まれるかもしれません。
ちょっとウンチク 政治が描き変える建国の瞬間
1949年10月1日、北京の天安門の上で毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言した。この歴史的瞬間を描いた董希文の「開国大典」は、数奇な運命をたどった油絵だ。
当局の依頼で董が絵を描き上げたのは50年代前半。その後、50年代半ば、60年代、70年代と、3回も描き直しを求められた。3度目は董が病気で弟子が作製。董の没後、4回目の「修正」が必要とされ、新たな複製が作られた。
度重なる「修正」の原因は政治変動だ。失脚した要人やときの権力者に恨まれた故人が画面から消えた。歴史に対する共産党政権の姿勢がわかる「名画」といえる。(編集委員 飯野克彦)
2020年12月23日注目記事
政府 天安門事件当日
中国に融和方針決める
1989年に起きた中国の天安門事件で、日本政府が、事件当日に中国に融和的対応をとる方針を決めていたことが、23日公開された外交文書で明らかになりました。人道的見地から容認できないものの、中国の国内問題だとしていて、専門家は「改革開放を支援して中国を安定させることが世界の利益になると判断したのではないか」と指摘しています。
公開された1万ページ余りの外交文書には、1989年6月4日に中国の北京で、民主化を求める学生や市民の運動が武力で鎮圧され、大勢の死傷者が出た天安門事件に関連する記録が含まれていて、日本政府が、事件当日に中国に融和的対応をとる方針を決めていたことが明らかになりました。
この中で、日本は自由、民主という普遍的価値を西側諸国と共有しており、中国政府が学生や一般市民を武力鎮圧し、多数の死傷者を出したことは、人道的見地から容認できないと指摘しています。
一方で「今回の事態は、基本的にわれわれとは政治社会体制や価値観を異にする中国の国内問題であり、対中国非難にも限界あり」としています。
そして「西側諸国が一致して中国を弾劾するような印象を与えることは、中国を孤立化へ追いやり、長期的、大局的観点から得策ではない」として、各国が一致して中国に制裁措置を行うことには反対すると明記しています。
また、中国が改革開放政策を維持することは西側にとっても望ましいという観点から、国際的にも納得が得られる国になることを表明するよう働きかけ、関係を徐々に修復していくことが必要だとしています。
中国の現代政治が専門の東京大学公共政策大学院の高原明生教授は「人権じゅうりんに強く抗議するのはいいが、それによって何が実現できるのかという問題がある。改革開放を支援して中国全体を安定させることが、日本やアジア太平洋地域、そして世界にとって利益になるという基本認識は、事件が起きても変えないという判断だったのではないか」と指摘しています。
天安門事件後 経済協力懸念のアメリカへ外務省反論
1989年の天安門事件のあと、日本の中国への経済協力を懸念するアメリカ側に対し、外務省の担当者が「非民主的な国に機械的に経済協力を行わないということには必ずしもならない」と反論していたことが、公開された外交文書で明らかになりました。
中国への経済協力をめぐって、日本政府は、1989年6月に北京で天安門事件が発生した際、ODA=政府開発援助の大部分を占める円借款をいったん延期しましたが、翌年の7月には再開することを表明しました。
23日公開された外交文書では、天安門事件から10日余りたった6月15日、外務省の幹部がアメリカ政府の高官との会談で、日本の中国への経済協力を懸念するアメリカ側に反論している様子が記されています。
この中で、アメリカのロバート・フォーバー国務次官補代理は「日本政府が中国に対する経済協力案件を次々と承認すればワシントンを刺激することになる」と指摘しました。
これに対し、外務省アジア局の鈴木勝也審議官は「天安門における発砲事件については、われわれも遺憾と考えている」と述べる一方、「西側の価値観や体制とは、ともに異なる中国に同様の物差しをあてはめるのは無理がある。非民主的な国に機械的に経済協力を行わないということには必ずしもならない」と主張しました。
宮本雄二 元中国大使は「中国のいわゆる『改革派』と呼ばれる人たちは、『改革開放を進めたから天安門事件が起こったんだ』という中国国内の批判にさらされ、窮地に立っていた。われわれには、改革開放が正しい道であり、円借款を決して途絶えさせることはできないという明確な認識があった」と話しています。
日中関係に詳しい東京大学公共政策大学院の高原明生教授は「アメリカには、自分たちは人権問題を重視して中国との交流をセーブしているのに、日本の企業は構わず活動していると見えたのだと思う。日本と中国が、いわば結託するのではないかという懸念があったのではないか」と指摘しています。
天安門事件直後のサミット 中国の孤立回避へ日本が働きかけ
1989年の天安門事件直後に開かれたサミット=先進国首脳会議で、中国を厳しく非難する政治宣言の採択を目指す各国に対し、日本政府が中国の孤立化を防ぐため、より穏当な表現にするよう働きかけていたことが、24日公開された外交文書で明らかになりました。
1989年6月に起きた天安門事件直後に、フランスのパリ郊外で開かれたアルシュサミットでは、民主化を求める学生や市民を武力で鎮圧し、多くの死傷者を出した中国政府への対応が最大の焦点となりました。
公開された文書では、議長国のフランスをはじめとする各国が、中国を厳しく非難する政治宣言の採択を目指したのに対し、日本政府が中国を孤立化させないよう、より穏当な表現を目指して各国に働きかけていたことが明らかになりました。
当初、フランスが各国に示した宣言のたたき台では、中国政府の対応を「凄惨(せいさん)な鎮圧および処刑」と表現し、ハイレベルの交流や軍事協力の停止、世界銀行による新規融資の延期などといった制裁の実施に言及していました。
これに対し、日本側は、中国への非難は抑制的にしたうえで、制裁には言及せずに、「中国の孤立化は欲しておらず、協調と自制の姿勢で国政運営にあたるよう強く要請する」という表現を宣言に盛り込む案で各国との協議に臨みました。
これに、各国が強く反発したため、日本側は、制裁に言及することは受け入れるものの、中国の孤立化を防ぐ趣旨の文言は必要だとして粘り強く交渉を続け、当時の宇野総理大臣みずから、フランスの交渉担当を務めるジャック・アタリ氏への説得を試みました。
その結果、宣言には「中国の孤立化を避け、可能な限り早期に協力関係への復帰をもたらす条件を創り出すよう期待する」という日本の方針を反映した文言が盛り込まれました。
当時、外務省職員として政治宣言をめぐる協議に携わった宮本雄二 元中国大使は「中国を孤立させることは正しくないし、中国を不必要に刺激し、中国国民の感情をあおることもよくない。ほかの国から『日本だけが浮き上がってしまうぞ』と言われたが、みな確信を持っていた」と話しています。
中国の現代政治が専門の東京大学公共政策大学院の高原明生教授は、「今の中国の状況からすれば、『なぜそんなに助けたんだ』と思うかもしれないが、今の尺度で当時を判断するのは間違いだ。中国の改革開放政策を支援しなければ、もっと大変なことになるという見方を多くの日本人がしていた。長い発展プロセスの中で起きた非常に不幸な事件と捉えるべきだというのが日本の立場だった」と指摘しています。
1989年サミット“水面下の駆け引き”明らかに
公開された外交文書には、1989年の天安門事件の直後に開かれたサミット=先進国首脳会議を舞台に、政治宣言で、中国政府を厳しく非難すべきだとする各国と穏当な表現を目指す日本が水面下で駆け引きを繰り広げた様子が記録されています。
サミットの議長国、フランスが、7月4日に各国に示した政治宣言のたたき台では、中国政府の対応を「凄惨な鎮圧および処刑」と表現し、閣僚などのハイレベルの交流や軍事協力の停止、世界銀行による新規融資の延期など、ヨーロッパ4か国が実施した制裁に言及していました。
これに対し、日本側は同日、日本が中国への制裁に賛同したと受け取られないよう「各国の措置については言及しないほうが望ましい。各国の立場が固い場合はできるだけ抽象的な表現にするよう努める」などとした基本方針を確認しました。
そして、中国への非難は抑制的にしたうえで、制裁には言及せず「中国の孤立化は欲しておらず、協調と自制の姿勢で国政運営にあたるよう強く要請する」という表現を宣言に盛り込む案で各国との協議に臨みました。
7月7日に行われた事務レベルの協議では、日本側がまず「中国に関して特別の宣言を発することを望んでいない」と述べたのに対し、ほかのすべての参加国が「宣言は必要だ」と主張したため、具体的な宣言案の検討に入りました。そして、日本側が中国への制裁については抽象的な表現とするよう求めたのに対し、アメリカが「具体的な措置への言及は不可欠だ」と主張したほか、西ドイツも「具体的な措置に言及しない宣言は無意味だ」などと発言しました。
このため7月11日に行われた日米の交渉担当者による協議で、日本側は妥協案として、中国への制裁の言及を受け入れる代わりに「われわれは中国が孤立化することを意図するものではない」という文言を加えるよう求めましたが、アメリカ側は「迫力が落ちる」と難色を示しました。
宣言が採択される前日の7月14日、宇野総理大臣が、議長国フランスの交渉担当を務めるジャック・アタリ氏との昼食会で「中国がみずから孤立化しないような改革を進める必要がある。それまではこういう姿勢をとる、あるいは見守るというような案文ならいいのではないか」と説得し、アタリ氏から「それなら巧妙な言い回しであり問題ない」という回答を引き出しました。
宇野総理大臣は、7月15日の討議で「心に留めておくべきは、今の中国は『弱い中国』であるということだ。歴史的に中国は、弱い時には常に強い排外的な姿勢を取ってきた。宣言を公にするにあたっては、ことばを慎重に選び、いたずらに中国人の感情を刺激し、彼らの態度を硬化させるべきではない」と発言しました。
結果として宣言には「中国当局が、政治、経済改革と開放へ向けての動きを再開することにより、中国の孤立化を避け、可能な限り早期に協力関係への復帰をもたらす条件を創り出すよう期待する」という日本の方針を反映した文言が盛り込まれました。
天安門事件後 英サッチャー首相が香港の将来不安視
中国政府が民主化を求める学生や市民を武力鎮圧した1989年の天安門事件後、イギリスの当時のサッチャー首相が、中国への返還で合意していた香港の将来を不安視する発言をしていたことが外交文書で明らかになりました。
1980年代にイギリスを率いたサッチャー首相は、香港の返還をめぐって、当時の中国の最高実力者、※トウ小平氏との交渉にあたりました。
香港の返還合意から5年後の1989年9月、サッチャー首相が日本政府の関係者に対し、6月の天安門事件を受けて、トウ小平氏の考え方や香港の将来を不安視する発言をしていたことが、公開された外交文書で明らかになりました。
日本訪問を5日後に控えた9月14日、サッチャー首相は千葉一夫イギリス大使との夕食会で「かつてトウと話し合った際、イギリス政府も法律の下にあることをどうしても理解せず、『国家が欲すれば法律をそのように変えればよい』と主張した。こんにちの中国の問題は、まさにこの考え方に根源があると思う」と述べ、法に基づく統治に対するトウ小平氏の考え方に懸念を示しています。
そして、日本を訪問したサッチャー首相は中山太郎外務大臣と会談した際「トウ小平や趙紫陽と話し合った経験からは、天安門のような事件が起きることは予想できず、極めてショックだった。こうした事態は二度と起きてはならない」と指摘しました。
そのうえで「香港には500万の住民がいるが、自国民にあんなことができるのなら、自分たちはどうなるのかと不安を持っている」と述べ、8年後に返還する香港の将来に懸念を示しています。
戦後外交史に詳しい九州大学の中島琢磨准教授は「サッチャー氏は、まるで現在の香港の状況を予見していたかのような話しぶりだ。トウ小平氏との会話の中で抱いた『法の支配』に対する危機意識も明らかになっており、非常に興味深い。現在の日本の視点から見ても非常に示唆に富んでいるのではないか」と指摘しています。
(※トウは「登」に右が「おおざと」)
天安門事件とは
天安門事件は、1989年の6月4日、北京の天安門広場に集まり、民主化を求める学生や市民を中国の軍隊である人民解放軍が武力で鎮圧したものです。兵士が市民に向けて銃を発砲するなどして、大勢の死者やけが人が出ました。
きっかけは、1989年4月15日、保守派の批判を受けて失脚した改革派の胡耀邦・元総書記が亡くなったことでした。これを機に北京にある天安門広場では学生らが連日追悼集会を開き、元総書記の名誉回復などを求めましたが、次第に要求は民主化への移行を求めるものに変わっていきました。
事態が急変したのは4月26日。中国共産党の機関紙「人民日報」が学生らの運動を「動乱」と見なす社説を掲載したことから学生たちの間に強い反発が広がり、社説の取り消しなどを求めて一部はハンガーストライキなどの過激な行動に出るようになったほか、100万人規模のデモも行われました。
事態を重く見た中国共産党は、5月20日に北京市に戒厳令を敷き、デモの収束のため、6月3日の夜から4日にかけて天安門広場やその周辺に軍隊を動員し、無差別に発砲し、武力で強制的に鎮圧しました。この際に多くの学生らが犠牲になり、中国政府は死者の数を319人と発表しましたが、実際の人数はもっと多いとも指摘されていて、事件の真相は今も明らかになっていません。
外交文書とは
外務省は、作成から30年以上が経過した公文書のうち、歴史上、特に意義があり、公開しても支障がなく、国民の関心も高いと判断した文書を、毎年1回公開しています。
今回、公開された外交文書は、1987年から1990年に作成された1万600ページ余りで、合わせて26のファイルに収められています。
この中には、
▽1989年に中国の北京で起きた天安門事件をめぐって、日本政府が対応を協議した際の記録、
▽天安門事件直後に開かれ、中国への各国の対応が焦点となったフランスでのサミット・先進国首脳会議に関係する記録、
▽当時の海部総理大臣のアメリカ訪問に関する文書などが含まれています。
文書には、極秘扱いとされていた公電も含まれていますが、現在も外務省の情報源となっている人物の名前が記されるなど、引き続き、外交交渉への影響があると考えられる部分などは一部が黒塗りになっているものもあります。
公開された文書は、外務省外交史料館のホームページに、23日から掲載されるほか、外交史料館では原本を閲覧することもできます。
対インド国別援助計画(外務省)
対インドODA実施にあたっての基本認識
(1)インドの特殊性
対照的な数値が示すインドの特殊性
(1)購買力平価で計測したインドのGDPは世界4位であり、BRICsの一翼として経済的な注目を集めてきたアジアの大国。2)他方で、2003年時点での一人当たりGDPは500ドルに満たない典型的な低所得途上国。)
(2)援助受け入れに対するインドの考え方
援助受け入れに関しては、オーナーシップが確立している国であり、この点が他の発展途上国と最も異なる。インドの高いオーナーシップを尊重し、そのようなODA受け入れ姿勢の長所を活かした援助のあり方を模索する必要がある。
(3)日印関係の特殊性と経済関係強化の必要性
我が国のインドとの経済関係(貿易、直接投資、経済協力)はこれまでODAに集中する形で推移してきている。貿易、直接投資はこれまで微々たるシェアしか占めていないが、近年、我が国企業のインド経済への関心が急速に高まっており、民間部門においても経済協力強化の機運が高まりつつあることも事実。
今後は、インドにおいても、我が国と東アジアや東南アジア諸国の間で見られたような「1)円借款によるインフラ建設とそれを支える技術協力による人材育成が、2)民間直接投資の増加をもたらし、3)経済発展と生活水準の向上に繋がる」という因果連関を効率的に強化することが望まれる。
(4)対印ODAの方向性
(イ)対インドODAに関する基本認識
1)インドが世界最大の貧困層を有する国であることは事実であるが、この事実は、インドが劣った国であることを意味するものではなく、また我が国の援助が狭義での貧困プロジェクトに集中すべきであるということをも意味しない(インドは、貧困問題、所得分配問題を基本的には国内の問題として理解。)。2)インドは自助努力の考えが確立している国である。3)インドが最終的に望んでいるのは、直接投資・貿易・技術移転の拡大である。ODAが民間の経済関係を促進するという流れを作り出すことが、我が国ODAが果たすべき役割の一つ。(ロ)対印ODAの方向性
1)第1は、日印グローバル・パートナーシップを構築するため、政治・安全保障、経済、文化、地球規模問題等とともに、対印援助を通じた協力関係を我が国の今後の外交戦略の重要な柱の一つとして位置付けること。2)第2は、我が国の対印ODAは、外交関係強化のベースとなる人材交流の飛躍的発展に力点を置く必要があること(政府ベースでの人的交流を別にすると、インドに対する我が国の興味・関心はきわめて薄く、インドの正確な姿がほとんど知られていない。あらゆる分野での飛躍的な人的交流の高まりがないならば、インドに対する理解が進展することはなく、また国民からの十分な理解も得られない。)。
対印ODAの重点分野
対印ODAの重点分野は、以下の3分野。
(1)経済成長の促進に資するインフラ整備支援
電力セクターへの支援、運輸セクターへの支援、特別経済区の質向上のためのインフラ整備支援(ハードとソフトを有機的に組み合わせて支援することによる、付加価値の向上を念頭に置く)。
(2)貧困・環境問題への対処
(イ)貧困問題への対処
保健・衛生分野に対する支援、農業・農村開発に対する支援、防災の視点の取り組み、 雇用創出に資する観光開発支援。(ロ)環境分野に対する支援
上下水道への支援、植林への支援、再生可能エネルギー支援、都市環境の改善、河川・湖沼の環境保全。
(3)人材育成・交流の(飛躍的)向上のための支援
人材の育成・交流、魅力ある投資環境整備のためのソフト面での支援、日印知的交流。
援助の効率化と実施体制
各種経済協力手法の間の連携の強化:
援助手法(有償資金協力、無償資金協力、技術協力)の特徴を活かし、最適な援助手法を組み合わせて対応することが必要。なかでも、資金協力と技術協力の連携は、ハード面とソフト面の支援を組み合わせることによる相乗的な効果の発揮が期待されると考えられることから積極的に実施。
援助体制の強化:
インドの各セクターの事情に精通した専門家を大使館やJBIC、JICAから成る現地タスクフォースに配置。
援助実施上の留意点
軍縮・不拡散上の対応
2001年の経済措置の停止の際、同措置の停止にあたっては、核不拡散分野における状況が悪化するような場合には、措置の復活を含めて然るべき対応を検討することを明確にし、インドに対して、核実験モラトリアムの継続及び輸出管理体制の強化、NPT加入、CTBT署名・批准を含め、核兵器をはじめとする大量破壊兵器及びその運搬手段に関する軍縮・不拡散上の進展を強く求めてきており、こうした働きかけに対するインド側の対応を引き続き注視。
参考文献・参考資料
「人口世界一」インドが経済大国になるという幻想 製造業が弱すぎ「人口ボーナス」を生かせない (msn.com)
【インド英語の実情】世界第二位の英語人口、そのレベル感と使用頻度は? | インド就職をサポートするメディア Palette | 生活情報から働く人の体験談まで! (palette-in.jp)
中国発展の要因となった「改革開放」とは?わかりやすく解説! - ページ 2 / 3 - Rinto
C:fiVŠš‚å−w−wŁñkodak 9.pdf (tenri-u.ac.jp)
中国の近代化計画を規定する 基礎的要因についてのー研究 平 田
中国、なぜ「異形の大国」? 成長しても民主化進まず - 日本経済新聞 (nikkei.com)
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