政治講座ⅴ1906「恩を忘れて豹変する習近平」
暗殺や重病説が噂される習近平氏、長老たちに北戴河会議で破綻状態の中国経済の責任を追及されて叱責されたとも噂されている。
中国の夢・台湾武力侵攻の野望・一帯一路(過剰鉄鋼生産の輸出、債務の罠)・反スパイ法強化・不動産バブル崩壊・過剰債務による地方財政破綻・海外投資の資金逃避・若年層の就職難・失業問題・住宅ローンの不良債権化・EV車の過剰輸出・外国企業の脱出・東シナ海でのフィリピンとの紛争・日本の領土・領海(尖閣諸島)への不法侵入など・戦狼外交による覇権主義の顕在化・「ALPS処理水」を「汚染水」と因縁をつけて魚介類の輸入禁止・共同富裕などと言い放つ。すべて、外交の失敗である。
今まで改革開放路線の鄧小平の資本主義の導入は政治腐敗を生み出したと批判して毛沢東時代に祖先返りしたが経済失敗が見えてきて、共同富裕ではなく共同貧困になってきた。
民主主義を切望する人民を戦車でひき殺し民衆を弾圧した事実を「共産党」を守ったと称賛する姿は、とても、中国共産党は「民主主義国」とは相容れない国である。中国の民主主義化を期待したから米国と日本は企業進出してGDPを世界2位まで押し上げたのである。そして、日本に恩義を感じなければならなく忘れてはならない事実がある。天安門事件で世界中から中国が孤立する中で日本が欧米への橋渡し役で今日までの経済発展があることを忘れてはならない。今回はその妄言を言う習近平氏の報道記事を紹介する。
そして、日本の自虐史観による資金援助が中国共産党という怪物を助長させたことは否めない。日本が中国人民への開発援助金ODAが中国解放軍の軍備に使われてきたことは日本政府の失政である。そして、前述したように、日本に対して恩を仇で返す行為を平気で繰り返す傍若無人の国家になり下がったのである。
皇紀2684年8月25日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
習主席、天安門事件に異例の言及-共産党統治守ったと鄧小平氏を称賛
Bloomberg News によるストーリー
(ブルームバーグ): 中国共産党の習近平総書記(国家主席)は22日、鄧小平氏の生誕120年を記念する演説で、学生らの民主化運動を武力で鎮圧した1989年の天安門事件に言及し、党の統治を守ったとして鄧氏を称賛した。中国の景気が停滞する中、社会の安定を巡る当局の懸念が浮き彫りとなった。
習氏は演説で、「鄧小平同志は党と人民を率いて旗幟(きし)鮮明に動乱に反対し、社会主義国家の政権を断固守り、党と国家が危険な風や荒波の厳しい試練に耐えられるようにした」と評価した。
天安門事件への今回の言及は、政府の公式見解に沿ったものだったが、中国指導部が事件について公に触れるのは異例だ。天安門事件の武力弾圧に関するニュースやソーシャルメディアへの投稿は通常、中国全土で検閲対象になる。
毛沢東氏以来最も強力な指導者である習総書記は、鄧氏が思想政治活動と優れた伝統教育を強化する必要性を強調し、「紅色江山(共産党による統治)」の安定確保に貢献したとも指摘。「中国は必ず自ら選択した社会主義の道をあくまで歩む。誰もわれわれをつぶすことはできない」という鄧氏の発言を引用した。
国内に不満
中国当局が不動産セクター危機で拍車が掛かる景気停滞への対応を続け、消費者や企業がますます悲観的になっている中で、今回の演説が行われた。7月には、新卒者の労働市場への流入に伴い、若者の失業率は5カ月ぶりに上昇した。
数十年にわたる急速な経済成長によって、何億人もの人々が貧困から抜け出すことができたが、ここにきて多くの中国人の間で不満が高まっており、現代を「歴史的ごみ時間」と呼ぶことも多くなっている。ごみ時間とはもともと、スポーツの試合で劣勢のチームに逆転の見込みもなく、勝敗が決まった後の残り時間を指す。
習総書記は演説で、鄧氏に言及して現在の政策に大きな正当性も持たせた。鄧氏をたたえる中で、経済の現代化と共同富裕を推進し、軍備を増強し、台湾統一を目指す取り組みを強調した。
原題:Xi Touts Deng’s Security Legacy in Rare Nod to 1989 Crackdown(抜粋)More stories like this are available on bloomberg.com
北戴河会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北戴河会議(ほくたいがかいぎ)は中華人民共和国において北京市に近い渤海沿岸の避暑地・保養地である河北省秦皇島市北戴河区で毎年夏に開かれる中国共産党指導部の非公式会議。
中国では例年夏に北戴河で現役の共産党指導部と引退した旧指導部の長老や有識者が休暇を利用して非公式に人事や政策等の重大事項を話し合う。
党幹部や長老らが一堂に会する大会議が開かれるのではなく、各人の別荘などの拠点に小規模な会合や食事会などを繰り返すとされる。
引退した長老たちとっては、現指導部に対する意見を表明する場として重要な意味を持つ。中国政治の不透明さを象徴する根回しの舞台となっている。
「北戴河会議」開催中は党最高幹部クラスの巨大な別荘の周辺では武装警察が交通規制と警戒にあたっている。
北戴河には軍の空港があることから、「北戴河会議」開催中に現役の共産党指導部は北戴河から多少離れた場所にいたとしても、空港から航空機で北戴河に行くのは簡単とされる。
北戴河は猛暑の北京より平均気温が低いことから清朝末期から外国人らの避暑地・保養地として発展しており、1949年の中華人民共和国建国前後に中国共産党が北戴河の別荘群を接収した後に、水泳好きな中国共産党主席の毛沢東が夏季に遊泳もできる避暑地・保養地の北戴河で休暇を取る中で共産党幹部も集まるようになって重要方針を話し合うようになった。1
953年に北戴河に党や政府の夏季臨時事務所が置かれることで、夏季に会議も開催できる仕組みが作られる形で「北戴河会議」が定例化した。
共産党や政府の機能が夏に1ヶ月近く移ることから「夏の中南海」と呼ばれていた。
「北戴河会議」は政治上重要な意味を持った。
1958年夏の「北戴河会議」では毛沢東共産党主席の指導の下で人民公社設立促進や金門島砲撃が決定された。
夏季に北京を訪問した外国要人は、中国首脳と会見するため北戴河に出向くのが恒例であった。あるアメリカの外交官は北戴河のことを「smoke-filled room」(秘密会議用の部屋)と呼んでいた。ここで根回しされた政策は秋以降、公式の会議で正式に決定するため、外交官やチャイナ・ウォッチャーたちは北戴河での情報収集を重視していた。
「北戴河会議」は1966年に発生した文化大革命時に一旦廃止されたが、文化大革命終了した後の1984年になって最高指導者の鄧小平が水泳好きなこともあり復活した。1989年には6月に六四天安門事件が発生したこともあり、「北戴河会議」は開かれなかった。鄧小平の後を継いで最高指導者となった江沢民は水泳の趣味はないが、毎夏に北戴河で会議を開く慣習は受け継いだ。
2002年秋に中国共産党総書記に就任して2003年に新指導部始動を本格化させた胡錦濤の意向により、北戴河の夏季臨時事務所廃止と共産党指導部らの夏季に北戴河を出入り禁止とする方針を表明という形で「北戴河会議」を2003年から廃止した。
2003年夏はSARSが中国国内で蔓延しており、SARSの後遺症や貧困等で苦しむ国民が多い中で、幹部や官僚多数が約1ヶ月にわたって保養地で過ごすことに国民から不満を招くことからの処置とされた。しかし、長老らの反発により、2007年には秋に第17回中国共産党大会を控えていたことから、2008年には北京オリンピック後の経済政策を話し合うためとして、2012年には秋に第18回中国共産党大会が控えていたことから、「北戴河会議」が復活して開催されたことが報道されている。
2012年秋に発足した習近平政権では2013年以降は毎年「北戴河会議」が開催されている。
「北戴河会議」はあくまで非公式なものであるため、参加者や協議内容や期日は公表されない。ただし、会議に参加すると目される要人が北戴河入りしたことや北戴河を離れて別の場所に訪れたこと等の動向は報じられるため、それをもって「北戴河会議」の時期等について推測することは可能である。
中国「北戴河会議」終了か 習指導部、経済や外交に難題
2024年8月15日 17:30
【北京=田島如生、塩崎健太郎】中国共産党の習近平(シー・ジンピン)指導部や引退した長老らが国政の重要課題を話し合う「北戴河会議」が終了したもようだ。
7月の第20期中央委員会第3回全体会議(3中全会)の決定を踏まえて経済や外交、国家安全といった課題を話し合ったとみられる。
会議は毎年8月ごろ、北京に近い河北省の避暑地、北戴河で休暇を兼ねて開く。現役の指導部が重要政策や人事について長老らの意見を聞く...
天安門事件 日本、強硬な欧米と一線…外交文書公開2020
2020/12/24 05:00
外務省が23日に公開した外交文書は、1989年6月に中国で起きた天安門事件を日本政府がどう受け止め、対応したかを詳細に記録している。同年に閣僚会議が発足したアジア太平洋経済協力会議(APEC)の誕生に向けた省庁の攻防など、外交の舞台裏も明らかになった。ファイル26冊の主なポイントを紹介する。(肩書は当時)
経済協力 早期再開探る
日本政府は天安門事件後、欧米諸国による対中制裁と一線を画し、新規円借款の凍結などの対応にとどめた。公表された外交文書からは、欧米の批判をかわしながら、経済協力を早期に本格再開しようとしていた様子がうかがえる。
「実態面で、今次事態の衝撃がなるべく小さくなるよう対処」
「サミットまでは『模様ながめ』の姿勢をとり、(中略)徐々に関係を正常化していくとの方針」
「(経済協力の)新規案件に係る慎重対応につき『凍結』、『中止』、『根本的見直し』等の表現は使わぬよう注意」
6月22日付の首相への説明用文書「我が国の今後の対中政策」には、経済協力の再開を急ぐ日本政府の姿勢がにじみ出ている。
文書はそのうえで、「我が国が有する価値観(民主・人権)」と「長期的、大局的見地からみて中国の改革・開放政策は支持」という「2つの相反する側面の調整」が求められているとし、「長期的・大局的見地の重視」が必要だとした。
21日の「今後の対中経協政策について」と題した文書でも、日本の経済協力が「中国の近代化、開放化」を支援してきたと総括し、「近代化、開放化の大筋が維持される限りこれを変更すべき理由はなし」と強調。新規案件は「当面は延期」としつつ、すでに始まっている経済協力案件については、欧米の批判を避けつつ継続する方針を示した。
7月14日からパリで開かれたアルシュ・サミットの外相会議では、三塚博外相が「(中国が)『改革・開放』政策へのコミットメントが変わらないことを示すのであれば、我々はこれに対する支援と協力を再開する用意がある、というメッセージを中国に対し伝える必要がある」と述べた。
こうした日本の姿勢に、米国などからは「日本は経済優先」との批判もあった。
米政府は6月15日、国務次官補代理が外務省幹部に「日本が継続中の対中経済協力案件を次々とapprove(承認)すれば、ワシントンを刺激する」と警告。7月8日には大統領補佐官が「日本は隙あらば経済利益を人道上の考慮に優先する国と米議会に見られている」と述べ、経済協力再開を「可能な限り延ばしてほしい」と求めたが、日本側は「少なくとも継続中の経済協力は静かに再開せざるを得ない」と伝えた。
日本政府は米国などからの批判を気にし、「日本政府や日本企業の対応が突出し、火事場泥棒と映るような行為となるのを極力控える」との方針を繰り返し示していた。8月7日付の方針案では、経済協力に関わる人の往来を「出来る限り地味かつ静かに」行うように指示した。
中国側も、経済協力の再開を様々な形で要請していた。李鵬首相は11月12日、訪中した日中経済協会の代表団に、凍結中の円借款の一部を「公表せず、少しずつ始めたらどうか。欧米の反応が公表すれば必ず出る」と持ちかけていた。
川島真東大教授(東アジア国際関係史)は一連の文書について、「当時の外務省の見方がわかる一級資料だ」と評価した。
邦人救出 緊迫の「戦場」…銃声の中 軍と解放交渉
天安門事件の際、在中国日本大使館が銃声が鳴り響く中で決行した邦人退避活動の一端が、外交文書から明らかになった。バスによる空港への輸送にあたる大使館員について、文書をまとめた館員が「戦場に送り出す気持ちだった」とつづるなど、緊迫した様子が伝わる内容となっている。
6月13日付で、大使館が本省あてに送った「当館が行った邦人救援活動」とする文書によると、事件のあった同月4日未明にはバス、地下鉄などの交通機関が完全にストップしたため、北京国際空港への移動の足がたたれた邦人から大使館に救助要請が殺到し始めた。大使館員の家が銃撃を受けたり、邦人カメラマン男性が足に被弾して、搬送されたりする事案も発生した。
大使館では翌5日から、大使館員が同乗したバスで助けを待つ邦人がいる大学などを回り、空港や一時滞在先のホテルへとピストン輸送した。乗務を嫌がる中国人運転手を1時間説得して、ようやく乗車させることもあった。10日までの6日間で、のべ109回の輸送作戦を実施し、1494人を退避させた。
7日には、会社事務所が軍に包囲され、取り残された邦人から救助要請が入った。銃声が絶え間なく聞こえる中、車両では銃撃される恐れがあるため、大使館員2人が徒歩で事務所に向かった。軍に直接、解放をかけあい、約2時間後に包囲が解かれて脱出し、事なきを得た。
北京国際空港では、騒乱でパスポートを持参できなかった邦人のため、大使館の旅券担当官がパスポート代わりになる臨時の「渡航書」を発給した。現金を持たない邦人も、航空会社へ借用書を出すことで搭乗可能とする措置がとられた。
外務省のまとめによると、負傷者が2人出た以外は、4000人近い邦人が騒乱の中、帰国した。
指導部当初から「流血回避困難」
学生らのデモに対する武力弾圧は、当初から中国指導部の念頭にあったとみられる。公開文書によると、5月20日に李先念・前国家主席が岡崎嘉平太・日中経済協会常任顧問に対し、「流血の事態は避けねばならないが、ある状況に至れば流血は避けられない」と述べていた。
また、トウ小平氏は11月13日、訪中した日中経済協会の代表団に、「愛国主義教育が足りなかった。動乱は思想の混乱によって生じた」と説明し、「学生、特に青年に対して再教育を行わなければならない」と語った。
共産党内権力争い注視
日本政府は、天安門事件に関連した中国共産党内の権力争いにも高い関心を払っていた。
5月22日に外務省中国課が北京の日本大使館へあてた公電では、北京市内に戒厳令が出て2日経過してもデモ隊の排除に動かない理由として「(中国)指導部内の意思決定メカニズムが正常に働いていない可能性も排除し得ない」と、政権内の主導権争いの存在を指摘した。
天安門事件では、中国指導部の最高実力者、トウ小平中央軍事委員会主席や李鵬首相ら保守派と、学生らへ融和姿勢をとった趙紫陽総書記との路線対立が顕在化し、結果的に趙氏が失脚した。
公電では趙氏の動向が公式に発表されないことを「抑制的な対応が学生デモを増長させ、責任が党内で問われた」と推測。今後は、李氏がトウ氏ら長老を後ろ盾として政権を維持していく可能性が大きいとしながらも「国政運営も容易ではなく地位は不安定なものになる」と展望した。
事件を主導したトウ氏に対しては総じて厳しい論調が目立つ。文書では、大衆の反発の矛先がトウ氏に向かうとして、「引退を早めざるを得ない状況に追い込まれる可能性もある」とも言及している。
結局、中国共産党は6月24日、上海市党委書記(政治局員)だった江沢民氏を総書記に選出。トウ氏は11月に中央軍事委員会主席を江氏に譲り、引退を表明した。
支援「内向き中国に戻さぬため」…谷野作太郎・元中国大使
天安門事件を振り返ると、あれほどの事態が起こるとは日本を含めてどの国も想定していなかった。事件当時はアジア局審議官で、すぐ後にアジア局長に就任した。日本は中国を政府開発援助(ODA)で支援していたが、北京の日本大使館職員から涙声で「目の前で青年が撃ち殺された。これまで日本がやってきたODAにどんな意味があったのか」との電話を受けたのが記憶に残る。
事件の翌月にあったアルシュ・サミットでは、西側先進国が中国批判を強める中、日本が共同制裁の回避などを訴えて中国の孤立化阻止に動いた。トウ小平は天安門事件の引き金を引いたが、(トウ氏の)改革・開放路線は東南アジア諸国連合(ASEAN)なども強く支持していた。外国に依存せず経済・社会を建設すべきだとする「自力更生」を掲げた毛沢東時代の内向きな中国に戻してはいけないという思いが日本には強かった。
天安門事件後も経済協力を保持したことを後に批判する声もあるが、当時の国内世論も踏まえたもので、間違いではなかった。
サッチャー英首相来日…返還後の香港 行く末懸念
1989年9月に来日したサッチャー英首相は、海部首相との夕食会で、「中国の指導者たちはいざとなったら抑圧を辞さないことが明確になった」と語り、97年に中国に返還される香港の行く末を案じていた。
夕食会では、海部氏が、直前に行われた伊東正義元外相を団長とする日中友好議員連盟の訪中の際、「中国は、改革・開放路線の堅持を何度も強調していた」と紹介したのに対し、サッチャー氏は「中国政府が天安門事件が起きなかったかのごとき言い方をするのは不可能」と中国を強く批判した。
サッチャー氏はさらに、「1997年以降に香港が中国に返還されることもあり懸念している」と述べたが、海部氏は「日本の投資についてはこれまで通りの交流関係を続けるよう慫慂しょうようしてまいりたい」と応じただけで、温度差が浮き彫りになっている。
香港では近年、中国が介入を強め、中国が約束していた「一国二制度」が骨抜きになっている。今年6月には、反体制活動を取り締まる国家安全維持法が施行され、民主活動家や中国批判を展開するメディア幹部らが相次いで逮捕された。かつてのサッチャー氏の懸念は、現実のものとなっている。
政治部 森藤千恵、森山雄太、西田道成が担当しました。
天安門当日、日本政府「対中制裁に反対」打ち出す…「戦後賠償」の考え背景に円借款継続
2020/12/23
1989年6月に中国で起きた天安門事件を巡り、日本政府が事件直後から、人権問題よりも、中国に改革・開放政策を維持させるための対中経済関与の継続を重視していた実態が、23日に外務省が公開した外交文書で明らかになった。
事件が起きた6月4日付の「中国情勢に対する我が国の立場」と題する1枚紙の文書では、事件は「人道的見地から容認出来ない」としつつ、「基本的に我々とは政治社会体制及び価値観を異にする中国の国内問題」と指摘。そのうえで、「(西側先進諸国が)制裁措置等を共同して採ることには、日本は反対」との方針を打ち出していた。
22日付の首相への説明用文書「我が国の今後の対中政策」では、「我が国が有する価値観(民主・人権)」と「長期的、大局的見地からみて中国の改革・開放政策は支持」という「2つの相反する側面の調整」が課題だとしたうえで、「結論は、長期的・大局的見地の重視」と強調している。
実際、21日付の「今後の対中経協政策について」と題した文書では、日本の経済協力が「中国の近代化、開放化」を支援してきたとし、事件によっても、「近代化、開放化の大筋が維持される限りこれを変更すべき理由はなし」と断言していた。
具体的な対応として、中国への第3次円借款(8100億円)を含む新規案件は「当面は延期の姿勢」とする一方、継続案件は「原則としては続ける」とした。ただ、欧米諸国が対中制裁を打ち出す中で、「日本政府や日本企業の対応が突出し、火事場泥棒と映るような行為となるのを極力控える」とも付記した。
26日の日米外相会談に向けて作成された三塚博外相(当時)の発言要領では、日本政府のこうした立場の背景として、「これまで営々として築いてきた幅広い日中関係を無に帰することは是非とも避けたい」という国民の気持ちがあるとしている。
一方、20日付の文書では、日本の経済協力に関連し、「日中関係には欧米諸国とは同一視できない特殊な面がある」とし、「戦争を含む過去の歴史的関係」を挙げた。
対中経済援助に「戦後賠償」の意味合いがあるとの考えが背景にあったとみられる。
◆天安門事件=1989年6月3日夜から4日にかけ、民主化を要求して北京中心部の天安門広場を埋め尽くした学生らを、共産党政権が「反革命暴乱」とみなし、軍を投入して戦車などで鎮圧した事件。4月に始まった学生デモの参加者は最大で100万人規模に上ったとされる。中国政府は死者数を319人と発表しているが、実際はこれをはるかに上回り、1000~3000人との推計もある。
対中ODAが今月末で終了 「日本の支援、中国で知られず」批判も
北京=高田正幸2022年3月31日 16時51分
40年以上にわたって中国に供与されてきた日本政府の途上国援助(ODA)の全ての事業が、3月末に終了します。ODAは中国の発展を支えて日中の結びつきを強めた半面、援助を続ける必要性や、中国側の情報公開などをめぐって批判も受けてきました。
日本の対中ODAは1979年に始まりました。中国が戦後賠償を放棄した見返り、との性質もあったとされます。
国際協力機構(JICA)によると、ODAのうち、無償でお金を提供する「無償資金協力」は約1600億円、お金を貸す「円借款」は約3兆3千億円、「技術支援」の約1900億円で、計3兆6千億円余りを支援してきました。
援助の内容は、初期は港湾や発電施設などインフラ支援が主で、その後は地下鉄建設や内陸部貧困解消、環境対策など、時代が進むにつれて変わっていきました。
しかし、中国が急速な経済発展を遂げ、国防費も多額になっていきました。さらに日本から援助を受けている中国が、他の途上国に戦略的な支援を行うようになりました。
日本ではこうしたことへの警戒心に加えて、「日本の支援であることが中国の市民に知られていない」といった懸念も強まっていきました。
ODAに携わったことがある元外交官の一人は、「ODAでつくられたことであることを示すプレートが外されたこともあり、中国が『隠している』と言われても仕方がない対応をとってきた経緯がある」と明かします。
こうした状況から、日本政府はODAが「役割を終えた」と判断。無償資金協力は06年、円借款は07年の時点でそれぞれ新規供与を終えています。そして、技術支援で継続していた事業も、3月末で完全に終了します。(北京=高田正幸)
参考文献・参考資料
習主席、天安門事件に異例の言及-共産党統治守ったと鄧小平氏を称賛 (msn.com)
中国「北戴河会議」終了か 習指導部、経済や外交に難題 - 日本経済新聞 (nikkei.com)
天安門事件 日本、強硬な欧米と一線…外交文書公開2020 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)
天安門当日、日本政府「対中制裁に反対」打ち出す…「戦後賠償」の考え背景に円借款継続 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?