政治講座ⅴ1967「権力闘争!今政治が面白い!『騙し討ち解散』だ!」
野党共闘できないように時間的猶予を与えず、勝負に出た石破首相は勝負師である。公約を覆して非難を浴びることを覚悟して、総裁就任・首相就任と同時に解散総選挙とは、やはり、自民党には策師がいることの現れであろう。立憲や他の野党は油断したのか、間抜けなのか、お人よしなのか、政権交代は難しいことが見えてきた。過半数を割る議席でも、他の少数野党に政策連携をして権力の座から降りることはしないのであろう。自民党は討ち死に覚悟、一方野党は御身大事で共闘して自ら血を流すことをしない。もう、勝負あった。
今回は現状の政治の裏側としての解散総選挙戦を通じて考察できる報道記事を紹介する。
皇紀2684年10月10日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
報道記事
「抜き打ち」「ハプニング」「死んだふり」「近いうち」…歴史に残る衆院の解散名
2024/10/9 12:44
峯 匡孝
衆院は9日午後の本会議で解散される。官房長官が「紫の袱紗(ふくさ)」と呼ばれる布に包まれた解散詔書を事務総長を通じて衆院議長に渡し、議長が「日本国憲法第7条により衆議院を解散する」と詔書を朗読、議員が万歳三唱するのが慣例だ。解散を巡っては、その時々の政局や時流にあわせて「解散名」が付けられてきた。与野党が思惑含みで名付けるが、振り返ると、長く記憶に刻まれる解散名もある。
「抜き打ち解散」(昭和27年8月)
吉田茂首相が何の前触れもなく、召集されたばかりの臨時国会で踏み切った衆院を解散した。反吉田派の吉田降ろしに対して吉田首相が先手を打つ形で、抜き打ち的に行ったことから「抜き打ち解散」と呼ばれている。
「バカヤロー解散」(昭和28年3月)
これも吉田政権下で起きた。昭和28年2月、衆院予算委員会で右派社会党の西村栄一氏が質問した際、吉田茂首相の「バカヤロー」発言をきっかけに、内閣不信任決議案が出され、与党の一部が賛成に回って可決。吉田首相は直ちに衆院を解散した。
「黒い霧解散」(昭和41年12月)
自民党議員や閣僚に不祥事が相次ぎ「黒い霧」と呼ばれる中、佐藤栄作首相は事態打開のため通常国会の冒頭で衆院を解散した。翌年の衆院選で自民党は過半数の277議席を確保した。
「一般消費税解散」(昭和54年9月)
国の借金解消を重要課題とした大平正芳首相が「一般消費税」の導入を掲げて衆院を解散した。自民党の候補からも反対の声が上がり、投票日直前に導入を断念したが、過半数割れし、敗北した。
「ハプニング解散」(昭和55年5月)
大平内閣に対する不信任案採決の衆院本会議に反主流派が欠席したため、不信任案が可決された。大平首相は衆院解散に踏み切り、史上初の衆参同日選となった。選挙戦中に大平首相が急死し、弔い合戦を自民党が制する形で大勝した。
「死んだふり解散」(昭和61年6月)
中曽根康弘首相が「解散はしない」と言い続けて野党を油断させつつ、通常国会の閉会直後に臨時国会を召集し、衆院を解散した。野党の反対で本会議が開けず、衆院議長の応接室で与党代表だけが万歳した。中曽根氏は後に昭和61年の正月から衆院解散を考えていたが、表向きは否定するために「寝たふり、死んだふり」をしていたと回顧した。
「政治改革解散」(平成5年6月)
政治改革の扱いを巡り野党から提出された宮沢喜一内閣の不信任決議案が、その後、自民党を離党する小沢一郎衆院議員らの造反で可決された。宮沢首相は解散・総選挙に打って出るが、自民党は過半数割れに追い込まれ、野党に転落した。
「神の国解散」(平成12年6月)
平成12年5月、森喜朗首相が神道政治連盟国会議員懇談会のパーティーで「日本は天皇を中心とした神の国」などと発言。森首相は衆院を解散するが、民主党の鳩山由紀夫代表は「神の国解散」と名づけ、徹底的に批判した。
「郵政解散」(平成17年8月)
小泉純一郎首相の宿願だった郵政民営化法案が衆院を通過したが、参院で否決された。小泉首相は直ちに衆院解散に踏み切り、衆院の採決で反対した自民議員を公認せず、非公認者の選挙区に「刺客」を送り込んだ。9月の衆院選では自民・公明与党が大勝、「小泉劇場」と呼ばれた。
「近いうち解散」(平成24年11月)
平成24年11月の党首討論で野田佳彦首相が、衆院議員の定数削減などを条件に衆院を解散する意向を表明、2日後に解散した。同年8月の民主、自民、公明3党党首会談で社会保障・税一体改革で合意した際に野田首相が「近いうちに解散」を約束したが、しばらく実行しなかったため、自民が「うそつき」と批判を強めていた。
「国難突破解散」(平成29年9月)
安倍晋三首相が北朝鮮情勢が緊迫化する中で衆院解散を決断した。安倍首相は記者会見で「この解散は『国難突破解散』だ。急速に進む少子高齢化を克服し、わが国の未来を開く。北朝鮮の脅威に対して国民の命と平和な暮らしを守り抜く。国難とも呼ぶべき問題を私は全身全霊を傾け、国民とともに突破していく決意だ」と語った。
「未来選択解散」(令和3年10月)
衆院議員の任期満了が迫っていた中で、岸田文雄首相は就任後10日で衆院を解散した。「11月の衆院選」が有力視されていたが、首相は衆院選の日程を「19日公示、31日投開票」と決定、周囲を慌てさせた。「勝負師」の一面を見せ、政局の主導権を握った。
※肩書はいずれも当時
「魔法使いでもない限り難しい」小沢一郎氏 野党共闘に早くも諦めの色…「するべきことをしてない」野田代表に責任転嫁も
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