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政治講座ⅴ1977「岩手・青森で語り継ぐ元寇(蒙古襲来)」
岩手や青森の方言には怖いものの代表的表現として「蒙古来る」「あ!蒙古来るぞ」と恐怖の対象としてお化け・幽霊・閻魔より怖いものとして語り継がれている。岩手・青森は平泉や三内丸山遺跡に象徴されるような文化の中心地であった。
そこの文化の中心に君臨した奥州藤原氏は、前九年合戦・後三年合戦の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間に陸奥(後の陸中国)平泉を中心として出羽を含む奥羽地方(現在の東北地方)一帯に勢力を張った藤原北家の支流の豪族であり、藤原北家秀郷流一族である。義経を支援したことで源頼朝に滅ぼされるまでは、平泉は文化の中心地であった。
鎌倉幕府の執権北条一族に実権を奪われて蒙古襲来後に鎌倉幕府を滅亡させる遠因となったことに対する皮肉も「蒙古襲来」を「盛者必衰の理」の教訓にするために現在まで方言として800年も語り継がれているのである。
そして、遠野物語でもご存じのように「口述」により正確に語り継がれる「物語」文化が存在する要素に起因するのであろう。
元寇は、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。蒙古襲来とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。なお、弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であった。
鎌倉時代の日本では「蒙古」という呼称が一般化していた。
「中国3000年の歴史」とか、「中国5000年の歴史」と歴史の古さを自慢する者がいるが、その中国大陸の歴史は連続性がなく、各民族の侵略・征服によってできた断片的な王朝の興亡の歴史の寄せ集めであり、日本の神武天皇から続く
皇紀2684年間の連続した国家とは違うのである。国家の長さが違うのである。中国共産党の教育制度を俯瞰すると中国は漢字を簡略体をしたために古い漢字の書物を読めなくなってきている。そして、文化大革命で知識人を粛清するなど、一種の「焚書坑儒」政策をしたために知識の分断が起きているのである。同様に韓国も漢字を廃止してハングル文字だけにしたために歴史書などの文献さえも読めなくなり、リテラシーの低下をもたらしていると言われる。
そして、中国同様に朝鮮人は「元寇」の侵略者と一緒になって、日本に侵略した事実を無視して、そのような侵略という歴史的事実を歴史から消し去っている。加害者が被害者面しているのは韓国左派勢力である。笑止千万とはこのことである。80年前の捏造歴史をいつまでも反日教育としている中国共産党に正確に伝える歴史教育の在り方を学んで欲しいものである。温故知新、歴史を忘れた国は亡びる。
今回は捏造歴史教育で反日教育する中国共産党と韓国(朝鮮人)の歴史の報道記事を紹介する。
皇紀2684年10月19日
さいたま市桜区
政治研究者 田村 司
報道記事紹介
なぜ中国人は元寇を知らない? 公教育が避ける「中華民族による侵略の歴史」
2024年10月15日 公開
安田峰俊(紀実作家)
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元寇は、日本史においては重要な事件だが、中国ではあまり知られていない。なぜこのような違いが生じたのか?日中での歴史認識の違いを生んだ、中国の公教育の在り方について、書籍『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)より紹介する。
※本稿は、安田峰俊著『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)から一部を抜粋・編集したものです。
日本人にとって「の」大事件
元寇を知らない日本人はほとんどいないだろう。小学6年生の学習指導要領にも記載されており、我が国で義務教育を受けた人は誰もが耳にする歴史用語だ。
蛇足を承知で説明すれば、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の二度にわたり、大元ウルスのフビライ・ハーンの命令を受けた軍隊が日本の北九州を攻撃した事件である。大元ウルスはモンゴル人の国家だが、当時は中国も支配していたため、こんにちの日本や中国では「元」と中華王朝風に呼ぶことが多い。
元はまず、第一次侵攻(文永の役)で数万人のモンゴル・高麗連合軍を朝鮮半島経由で送り込んだ。ただ、この時期の元は中国南部の南宋をまだ滅ぼせておらず、日本侵攻は南宋への牽制を兼ねた大規模な威力偵察としての側面が強かったとされる。
一方で第二次侵攻(弘安の役)は、第一次と同じ朝鮮半島からの東路軍に加えて、南宋の滅亡で接収された漢人兵士を主体に構成された江南軍も、東シナ海を経由して送り込まれた。元側の兵力は東路軍と江南軍の合計で十数万人以上にのぼったとみられ、本気で日本征服を念頭に置いた陣容だった。
元はさらに第三次侵攻も計画したが、内紛などで結果的に中止した。一方、日本側も鎌倉武士団の奮戦で防衛に成功したものの、対外戦争の負担は鎌倉幕府が滅びる遠因になった。これが元寇のあらましである。
元寇は現代においても、日本人にとっての大事件として記憶されている。なにより、国土に上陸してきた他国の正規軍と大規模な地上戦が起きた事態は、歴史上で元寇と第二次世界大戦だけなのだ(11世紀の刀伊の入寇や15世紀の応永の外寇など、小規模な対外紛争はほかにもある)。
しかも、第二次世界大戦の場合は地上戦の舞台が沖縄と樺太・千島だったが、元寇は日本本土(内地)で戦われた国土防衛戦争である。開戦前に日本側の外交的失敗があったとはいえ、相手側から突然侵略された事態も、元寇がほぼ唯一だ。
仮に敗北していた場合、日本の国家体制や日本人の生活習慣は、この時期を境に大きく変わった可能性が高い。天皇家が存続できたかも疑わしいところだ。
元寇は危うい勝利だっただけに、その後の日本人に変な自信をつけさせた面もあった。元軍が2回とも暴風雨で大打撃を受けたことは、第二次世界大戦中に神国日本のイデオロギーや神風特攻隊が誕生する遠因にもなっている。さまざまな意味で、元寇はその後の日本国家や日本人のありかたに大きな影響を与えたのだ。
中国人は元寇を知らない
一方、中国である。
当時の彼らはモンゴルに征服された立場とはいえ、中国は後世でも元朝を中華王朝の正統に位置づけている。中国共産党は、国内に約629万人いる「少数民族」モンゴル族を中華民族の一部であると主張しており、そのためチンギス・ハン以下のモンゴル帝国の皇帝たちも中華民族の英雄ということになっている。
この定義に従う限り、元寇は中国の自国史の一部である。ただ、「元寇」という言葉は日本側の呼称なので、漢字でこう書いても意味がわかる中国人はほぼいない――。
いや、問題は国による呼称の違いではない。実は、中国側で用いられる「元日戦争」(元と日本の戦争)や「元朝東征」(元の東方征服)と書いたところで、やはり大部分の中国人はピンとこない。理由は彼らの間でこの戦争の知名度が極めて低いためだ。
日本国内にいる大学院生レベルの中国人留学生に尋ねても、元と日本が戦った歴史を「来日後に初めて知った」と答える人が目立つ。中国国内の公教育でほぼ習わないうえ、中国の若者の約半分が受験する高考(ガオカオ・大学共通入試)の歴史科目でも出題されないことから、高学歴層の間ですらほとんど知られていないのだ。
加えて、元寇当時の元朝、すなわち大元ウルスは、初代のチンギス以来の対外拡張方針をまだ継続している時代だった。フビライは中国南部(南宋)と日本以外にも、現代の地名でいう北ベトナム(陳朝)と南ベトナム(チャンパー王国)、ミャンマー(パガン朝)、インドネシア(マジャパヒト王国)、さらに樺太のアイヌらしき集団(骨嵬[クイ])にも遠征軍を送っている。
無数に実施された遠征の矛先に、日本が含まれていたかが気になるのは日本人だけだ。たとえ同じ「中華民族」の行動でも、漢民族にとっての征服者だったフビライが他にどこの国の攻撃を命じていたかは、圧倒的多数の中国人にとって関心の枠外にある。
アカデミックの世界においてさえ、元寇への関心は比較的低調だ。
中国の学術論文検索データベースである『CNKI』(中国知網)で「元日戦争」や「元朝東征」を検索すると、それぞれ6件と14件しかヒットしない。「フビライ+日本」のように検索ワードを工夫すれば、もっと多くの論文が見つかるため、学界の関心はゼロではないはずだが、戦役の学術的な呼称さえろくに定着していない現状は察せられる。
一連の論文をチェックしてみると、習近平政権下で学術研究の制限が強まった2010年代半ばごろから、戦役の実情や元側の内部的な事情を考察する内容が減り、元寇の日本側における受け止め方を論じるといった「搦め手」からの切り口が目立つようになる。
中国は公教育のなかで「中国は歴史上で一度も他国を侵略したことがない」「世界で最も平和を好む国」という(どの口が言うのかと思える)歴史認識を教え続けており、外交部の定例記者会見でもこの主張を繰り返している。習近平についても、「中華民族の血のなかに、他者を侵略して覇道を唱えるような遺伝子はいまだかつて存在したことがない」と述べているほどだ(2021年10月9日、辛亥革命110周年記念大会講話)。
たとえ700年以上前のモンゴル人の皇帝の行動でも、「中華民族」の王朝が明確に他国を侵略した事実を詳しく掘り下げる研究は、現体制下では政治的にあまり喜ばれないのだと思われる。
ただし余談を書けば、中国のウェブ百科事典『百度百科』の「元日戦争」の記事は、なぜか筆致がかなり客観的で、内容も充実している。世間の無関心や政治的な締め付けの陰で、日本史や日本側の元寇研究にも目配りのある研究者が、記事をこっそりと執筆して憂さを晴らしたのかもしれない。
元は「中華王朝」だったのか
中国史において、元朝は異色の王朝だ。
歴史上、万里の長城の外からやってきて中国本土(漢民族の伝統的な居住地域)の全域を制圧した非漢民族王朝は、元朝と清朝だけである。だが、清朝は長い中国統治のなかで、支配層である満洲族が多数派の漢民族の言語や生活習慣を多く取り入れ、「中華王朝」らしい雰囲気を濃厚にまとうようになった。
彼らは王朝の中期まで、漢民族の価値観では夷狄(野蛮人)とされる自分たちがなぜ天命を受けて中華を統治しているのかを、なんとか理論化しようといじらしく努力した形跡もある。一方、元朝の支配者だったモンゴル人たちの漢化は限定的だった。
そもそも、本質的にグローバル規模の存在だったモンゴル帝国にとっては、広大な中国本土ですら帝国のパーツでしかない。彼らはわざわざ中華に染まったり、統治の正当性を理論化したりする必然性を、清朝ほどには切実に感じていなかったように見える(切実になる前に元朝の中国支配が終わったからでもある)。
また、世界史の年表だけを眺めると、1368年の明の建国によって元が滅びたように見えるが、実際の彼らはこのとき中国本土を「損切り」して北方の本拠地に戻っただけだ。元朝の後継政権は、中華世界とは別物の強力な権威として、その後も草原世界で数百年にわたって存在し続けた。
後世の中国人は、約1世紀にわたり中国本土を支配した元朝を、中華王朝の正統に位置づけざるを得なかったが、モンゴル人の側はその評価にさほどの価値を覚えていない(現在、少数民族として中国国家に組み込まれた「モンゴル」族に限れば、自民族の地位向上につながるのでありがたいはずだが)。
こうした複雑な事情もあって、現代中国における元に関係した言説はどこかよそよそしい。中国史上で最大の版図を実現したはずの「中華皇帝」フビライも、中国人の間では人気がない。中国の首都である北京の直接のルーツが、フビライが建設した元の首都の大都であることも、あまり声高には語られない。
そんな微妙な感覚がうかがえる文章が、党の広報サイト『中国共産党新聞網』に掲載されたことがある。
2016年7月7日付の、習近平の外交姿勢を讚える記事だ。その2年前の8月におこなわれた彼のモンゴル訪問を紹介するなかで、党のこの手の文章には珍しく、フビライや元寇に言及している。
ただ、記述はこのようなものである。
「日本の『神風』特攻隊の名称は、モンゴルと関係がある。約八百年前(原文ママ)、中国と朝鮮半島をすでに制圧したフビライは日本を攻撃することを決めたが、強大なモンゴル艦隊は突如として襲来した台風により打ち砕かれ、日本は安全を保つことができた。『神風』の名はこれに由来する。モンゴルがソ連の支配を脱してから、日本はほどなくモンゴルの密接な友人となり......」
自国史の話とは思えない他人事感だ。元朝を中華王朝として認めざるを得ないものの、対外侵略はモンゴル人がやったことで、中国とは無関係。そう言わんばかりの書き方に思えるのは私だけではあるまい。
「中国は歴史上で一度も他国を侵略したことがない」
そんなお約束を嘯くためにも、現代中国にとって元朝の歴史は頭が痛い。
日本との〝独立戦争〟に勝った? 特異な認識、歴史無視が広がっている
ソウルからヨボセヨ
2024/8/17 07:00
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韓国政府主催の恒例の「8・15光復節記念式典」に野党など反政府系が出席を拒否し話題だ。国立の独立記念館館長に保守派の歴史学者、金亨錫(キム・ヒョンソク)氏が任命されたことへの反発だが、金氏は日本統治時代の韓国人の国籍を問われた際、「日本」と答えたことも非難の対象になっている。歴史的事実をそのまま語ったのに、「日本支配の歴史を容認する売国奴」などと罵倒されているのだ。
韓国もパリ五輪で盛り上がったが、1936年ベルリン五輪のマラソンで金メダルに輝いた孫基禎(ソン・ギジョン)の国籍は国際オリンピック委員会(IOC)の公式記録で今も日本だ。過去、IOCに国籍変更を訴えたが拒否され、ベルリンの五輪記念碑の「日本」を勝手に削り問題になったこともある。
韓国は日本との併合条約は不法、無効と主張し、中国・上海にあった抗日活動家による亡命政権(?)を建国のルーツとする。文在寅(ムン・ジェイン)前大統領は在任中、8・15記念式典で1945年の「光復」は連合国の対日戦勝の結果ではなく、まるで自らの手で勝ち取ったかのような演説をした。
「滅亡する民族の3つの共通点」 アーノルド・J・トインビー
世界の民族研究から
「滅亡する民族の3つの共通点」
歴史学者 アーノルド・J・トインビー
( Arnold Joseph Toynbee 英オックスフォード大学出身:
1889年4月14日-1975年10月22日 )
①自国の歴史を忘れた民族は滅びる
②すべての価値を物やお金に置き換え 心の価値を見失った民族は滅びる
③理想を失った民族は滅びる
元寇の謎。なぜ高麗王は率先して、日本を侵略しようとしたのか
022.06.29
『民族と文明で読み解く大アジア史』増補編1
宇山 卓栄
日本の歴史教科書では、アジア全体の歴史の実体を学ぶことはできない。アジア諸民族は古来から多くの闘争を繰り広げてきた。それは21世紀の今も続いている。情勢の行方を見るのに、民族・宗教・文明に着目したアジア史の理解は必要不可欠なのだ。
『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)はその理解の一助になるはず。
著者の宇山卓栄氏による、この話題の本に収めきれなかった章を連載でご紹介したい。
今回はその第1回。13世紀の元寇で朝鮮人が果たした役割と、それに至った背景についてだ。
日本侵略を上奏した高麗の王子
13世紀の元寇。元の軍は長崎県・対馬に攻め入りました。その中にはモンゴル人とともに朝鮮人兵士もいました。『高麗史節要』には、帰還した高麗軍の将軍が200人の子供を高麗王に献上したという記述があります。
「蒙古襲来」とも言われるように、モンゴル人が大挙して押し寄せて来て、それに朝鮮人たちが仕方なく付き合わされたという捉え方が日本人の中にもあると思います。
しかし、実態はそうではありません。
当時の朝鮮は高麗でした。高麗王の子(後の忠烈王)は1272年、自ら進んで、フビライ・ハンに日本を攻めるべきであることを以下のように、上奏しています。
惟彼日本 未蒙聖化 故発詔 使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師。
惟(おも)んみるに彼の日本は、未だ(皇帝フビライの)聖なる感化を蒙(こうむ)らず。故に詔(みことのり)を発して、軍容を整え、継糴(けいてき、糧食を整えること)せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須(みち)いる所あらん。
もし此事(このこと)を以て、(皇帝が)臣(忠烈王のこと)に委(ゆだ)ねば、心力を尽し勉(つと)め、王師(皇帝のこと)を小助せん。――『高麗史』の「元宗十三年」の一部
王子はこの上奏の2年後の1274年、父王の死により、王(第25代王、忠烈王)に即位します。そして、忠烈王は文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)において、艦船を建造し、兵力と経費を積極的に元王朝に提供し、日本侵攻の主導的な役割を果たします。
貢ぎ物調達のため、なりふり構わず搾取
忠烈王の上奏文は高麗に日本侵略の意図があったことの何よりの証拠です。元を焚き付けた上での侵略ですから「虎の威を借りる狐」の如きものですが、実際に朝鮮兵はモンゴル兵とともに日本に襲来し、乱暴狼藉を働きました。立派な侵略であることに違いありません。
忠烈王は元王朝の都の大都(現在の北京)に滞在し、元の国力の強大さに圧倒されました。元に服従することこそが高麗の生き残る道と信じるようになったのです。毎年、元に莫大な貢ぎ物を送り、異常な追従ぶりを示しました。貢ぎ物を調達するため、なりふり構わず民や臣下を搾取したためクーデターが起こり、危うく殺されそうになることもありました。
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1278年、忠烈王は胡服辮髪の令を発布し、朝鮮のモンゴル化を徹底します。忠烈王は子をすべて元の人質に出しています。忠烈王はフビライに対し、以下のように言っています。
特蒙恩、宥小邦人民、得保
(皇帝フビライの)特別なる恩を蒙(こうむ)り、(高麗のような)小さき邦(くに)の人民を宥(なだめ)つかまつり、(自らを)保ち得ん。――『高麗史』の「元宗十三年」の一部
忠烈王は非常に有能な国王であったと思います。その有能な国王がここまで他国に追従するのには当然、理由があります。その追従の経緯を高麗の成立時から順を追って見ていきましょう。
なぜ文官のほうが武官よりも身分が上なのか?
太祖王建(ワンゴン)が高麗を建国し、936年、朝鮮を統一しました。高麗は「新羅→高麗→李氏朝鮮」の三つの統一王朝のうちの二つ目で、統一王朝で唯一、中国の属国でない独立国としてスタートしました。この間、中国は戦乱期を経て、960年、宋王朝が成立します。彼らは文治主義を掲げ、軍事拡張政策をとりませんでした。そのため、高麗は中国の支配を受けずに済んだのです。
高麗では、宋から学んだ製陶技術も発達し、高麗青磁が作られました。仏教が保護され、高麗版『大蔵経』が編纂されるなど、文化的な高揚も見られます。高麗初期は朝鮮人の栄光の時代として記憶されているのです。
高麗では両班(ヤンバン)という身分制が確立します。
役人のうち、文官を文班(ムンバン)、武官を武班(ムバン)と呼び、その両者をあわせ、両班と言いました。
両班は社会的な支配者層を構成し、官職を世襲しながら特権貴族化していきます。
とはいえ「尚文軽武」と言われたように、文官が武官よりも上位とされました。高麗は儒学を国学化しました。科挙試験でも儒学を課し、儒学の素養のある者が文官として取り立てられて、出世しました。太平の時代に武は必要とされず、武人たちを精神的に去勢するためにも、儒学の原理(目上の者には逆らってはならないなど)が統治に利用されたのです。
両班をはじめとする身分制は儒学の教えとともに徹底されます。身分の上下は絶対的なものであり、政権にとっても、社会を安定させる秩序の根本であったので、これに従わない者を厳罰に処しました。高麗では、こうした厳しい身分制に従い、武官は文官と食事を共にすることもできず、酒宴でも場外に出されていました。重要な政治的権限は与えられず、文官に服従させられました。
12世紀以降、北方の女真族との戦いで発言権を強めていった武官たちは遂に、クーデター(1170年、庚寅の乱)を起こし、文官を抹殺し、政権を掌握し、国王を操ります。いわゆる「武臣政権」の成立です。
内敵を叩くために外敵と手を結ぶ
武臣政権が続き、政情が不安定な中、13世紀、モンゴルが高麗に侵攻します。武臣政権は「抗蒙」を掲げ、モンゴルと戦いましたが、開京(現在の北朝鮮の開城市)をモンゴルに奪われ、王都を江華島に移します。
モンゴルを撃退することができない武官に対する批判が強まり、文官たちが巻き返しを図ります。武官に操られていた国王も文官グループに加担し連携します。モンゴルの後ろ楯を得ていた国王の高宗や文官たちは1258年、武臣政権を率いていた崔(チェ)氏一派を暗殺し、政権を掌握しました。そして、高宗はモンゴルにすぐに使いを送り、「これまで崔氏のせいで、恭順できなかった」と弁明し、モンゴルに降伏しました。
モンゴルは「征東行省」という高麗統治府を創設し、モンゴルの役人が直接、朝鮮全土を統轄しました。
しかし、高麗ではモンゴルに臣従した後も、反モンゴルの旧崔氏勢力の残党が多くおり、国王や文官勢力を脅かしていました。有名な「三別抄」なども残党勢力でした。別抄とは特別部隊のことで、崔氏政権が警護のために組織した左右の二別抄と、モンゴル軍の捕虜となりながらも脱出してきた者を集めて編成した神義軍をあわせて「三別抄」と呼びます。
国王は旧崔氏勢力を抑え込むためにも、モンゴルにすがる以外にありませんでした。国王は内敵を叩くために外敵と手を結ぶしかなかったのです。
大恩人フビライ
1268年、旧武臣政権勢力(反モンゴル派)が反乱を起こし、元宗を廃しました。モンゴルの人質となっていた忠烈王(この時はまだ王子)はフビライに、反乱を鎮圧するために兵を借りたいと懇願しました。フビライはこれを認めました。忠烈王率いるモンゴル軍は颯爽と朝鮮へ向かい、反乱を鎮圧し、父の元宗を復位させました。
忠烈王は反乱に加担した旧武臣政権勢力を皆殺しにし、反対派を一掃したことで、国王政権の復興に成功したのです。それを可能にしたのがモンゴルであったことから、忠烈王のモンゴルへの心従もまた、揺るぎないものとなりました。忠烈王にとって、フビライ・ハンこそが自分を王にしてくれた大恩人であり、フビライの意を率先して遂行することが自らの義務と感じ、終始、フビライに過剰にへりくだるのです。そして、フビライの世界征服を助けるべく、高麗が犠牲になっても日本侵略を行おうと進言して、フビライの歓心を買いました。
関連記事教科書が採用しない、朝鮮半島南部「任那日本府」=日本の支配…
日本にとっては迷惑な話ですが、忠烈王は日本を、元と高麗の共通の敵と措定することで、彼らの連帯意識を高めようとしたのです。元との結び付きが強固になればなるほど、高麗王の地位は安泰なものとなります。元寇で高麗は不本意ながらモンゴルに動員されたわけではなく、実際には高麗が積極的に加担していたのです。
自国民が犠牲になろうとも
文永の役(1274年)で高麗は、900隻の船を建造するのに約3万人を強制労働させ、朝鮮人兵士5000~6000人、水夫6000~8000人が動員されます。これにモンゴル人兵士、中国人兵士が加わり、全体で約4万の軍が編成されます。弘安の役(1281年)では、高麗はそれぞれ倍の人数を動員し、モンゴル人兵士、中国人兵士をあわせて、約14万の軍が編成された。
高麗は莫大な物的、人的負担を負いましたが、忠烈王はこれをフビライに自らの忠義を売り込むチャンスと考えたのです。労役につかされた朝鮮民衆は悲惨で、その窮状をフビライに訴えることも一時的にありましたが、忠烈王は自分の王位を守ることを優先し、自国民を犠牲にしました。
『高麗史』には、元の使臣がたびたび「高麗に駐在する元の役人や軍人に女を献上せよ」と命じたことが記述されています。忠烈王はこの命令に応えるため、監督官を派遣して女性たちを連行しました。処女を得るため結婚を禁止する令まで発布しています。
忠烈王という名は「忠義の烈(はげし)い王」という意味で元から諡(おくりな)されたものです。「祖」や「宗」という廟号が忠烈王に用いられなかったのは、元が高麗を独立国としてでなく、元の一部である諸侯国として扱ったからです。フビライは1271年、国号を中国風の元として、 都を大都に定めました。文永の役の3年前のことです。
日本侵略を王権強化のために利用
1274年10月の文永の役で、元軍・高麗軍は対馬・壱岐を侵略し、博多に上陸しましたが、武士の抵抗があり、戦闘わずか1日で撤退します。なぜ、すぐに撤退したのか、その理由はよくわかっていません。元寇は2回とも暴風雨によって元軍が被害を受けたとされます。しかし、第二回の弘安の役の時に暴風雨があったのは事実ですが、第一回の文永の役の時には暴風雨はなかったとする見方が学界では有力視されています。
忠烈王は文永の役の敗因を、モンゴル軍と高麗軍の指揮系統の未整備に伴う混乱と捉えました。忠烈王はこれを是正するため、高麗軍の将軍をモンゴル軍の指揮系統の中の正式な指揮官(万戸職など)と認め、モンゴル正規軍としての役割を果たさせるべきことを上奏しています。忠烈王は高麗軍の地位向上を狙ったのです。フビライはこれを認めました。
さらに忠烈王は、高麗軍を一元的にコントロールするため、高麗軍統轄の権限を自分に与えてほしいと上奏します。フビライはこれも認め、忠烈王を「征東行省」の丞相に任命します。「征東行省」とは前述のように、モンゴルが設置した高麗統治府です。
「征東行省」の丞相は高麗の統治権を一切任されています。丞相となった忠烈王は自分の腹心の部下たちを政治的要職に就け、また軍の指揮官たちを自ら選定し、事実上の王直属軍を編成します。
このことは、忠烈王が元王朝の日本侵略を自らの王権強化のための材料として最大限利用したとも言えます。その意味において、忠烈王は政治的に大きな成果を挙げました。以後も朝鮮の王や為政者たちは忠烈王を模範として「虎の威を借りる狐」を演じていくことになります。
14世紀に編纂されたモンゴルの歴史書『集史』には以下のようにあります。
(忠烈王)はフビライに寵愛された王と知られているが、実際には王ではなかった。――ラシード・ウッディーン『集史』、フビライ・ハン紀
元寇・文永の役(上) モンゴル・朝鮮軍が日本で行った殺戮…それでも日本の武士「勇敢にして死をみること畏れず」
2014/6/8 07:00
今から740年前、中国全土をほぼ手中にし、日本も従属させたいモンゴル帝国(元)皇帝のフビライ・ハーンは朝鮮半島を治める高麗と連合で3万以上の兵を派遣する。元寇(げんこう)と呼ばれる日本本土が2度にわたり侵略を受けた事件である。対する日本は鎌倉幕府執権・北条時宗の命で集まった御家人ら約1万人。武勲をあげて所領拡大を目指した御家人らの士気も高かったが、兵力の差もさることながら、集団戦法と未知の兵器を前に日本の武士は次第に翻弄されていった。
突貫作業
元への服属を求めるフビライの国書を携えて日本に渡った使節がたびたび追い返されたため、業を煮やしたフビライは武力による日本進攻を決意。軍船を造るにあたって、文永11(1274)年1月、戦艦300隻など軍船の建造を高麗に命じている。
平成23年、長崎沖の海底から弘安4(1281)年の2度目の元寇で使ったとみられる沈没船が見つかっている。ほぼ完全な状態だったため復元してみると全長が27メートルに及んだ。
これは当時の海外渡航用の貿易船と同じ構造で、一隻で100人程度の兵士が収容できる規模だったといい、1回目の進攻作戦でもこのような船を求めたことだろう。
だが、日本に大船団を出すのに風向や潮の流れなどを考えると、建造期間は半年しかなく、元が派遣したホン・タグの指揮の下、高麗は約3万人の労働者を動員して、昼夜関係なく突貫に次ぐ突貫の作業だったという。
その様子は、「疾(はや)きこと雷電のごとし。民、これに苦しむ」などと表現されている。
しかし、このときの現場を監督するキム・バンギョンは、強固な船だと期限内の完成は難しいと判断。費用が安くて簡単な構造の高麗船でしのぎ、期間内に高麗が造った船は大小900隻に達する。
そして総司令官のキントが着任後の10月3日、総勢3万人以上からなる兵を収容した船団は合浦(がっぽ)(現在の大韓民国馬山)から出港する。兵の3分の2はモンゴルと中国で、あとの3分の1が高麗だった。
上陸許す
連合軍の船は、戦艦のほか上陸用舟艇、補給船などからなり、日本近海は巨大なマストがたなびく、おびただしい数の軍船で埋め尽くされていた。
時宗も高麗へ送り込んだスパイから間もなく攻めてくることを察知し、上陸が予想される九州北部の日本海沿岸に兵を配するも、まずは数で圧倒されることになる。
10月5日、対馬の小茂田浜に上陸した元・高麗連合軍により、島を守る対馬守護代、宗資(助)国ら80人の兵や島民はことごとく殺害される。
壱岐でも惨殺を繰り返し九州沿岸に迫ってきた連合軍に16、17の両日、肥前・松浦や平戸島、鷹島などが次々に攻められ、討たれた兵の数は数百にのぼったともいわれている。
対馬、壱岐での敗戦の報に接した御家人らはただちに九州の拠点・大宰府へ向かい、その結果、九州の御家人を統括する鎮西奉行・少弐資能(しょうにすけよし)の3男、景資(かげすけ)を総大将に集まった兵は約1万人。
だが、元・高麗連合軍の動きは早く、20日に主力部隊の博多上陸を許す。3方から上陸する兵力は2万人で、日本側の数はその半分に満たなかったのだが、それでも士気は高かった。
ひるまない武士
当時の御家人は戦(いくさ)で手柄をあげては、恩賞として新しい土地をもらうことを誉れとしていた。このため、われ真っ先に敵陣に突っ込んで功を競うことこそが潔(いさぎよ)い戦い方だった。
御家人からすれば後鳥羽上皇と戦った承久の乱(1221年)以来、久々に訪れた所領拡大のビッグチャンス。当然、博多でも敵陣に突っ込んでいく。
対する元・高麗連合軍は組織ごとに動く集団戦法だったので、先陣を切った御家人らが取り囲まれては討ちとられるといったシーンが相次いだ。
さらに突然、けたたましい音とともに破裂する物体に終始、悩まされる。未知の兵器「鉄炮(てっぽう)」である。
直径20センチ、重量4キロの球体が破裂してその破片が約50平方メートルに飛び散る仕組みで、殺傷能力は低かったようだが、強烈な爆音と爆風は勇猛な御家人らも腰が抜けるほどだった。
コンパクトな短弓も驚異で、射程圏は約30メートルと日本の長弓に比べて6割程度だったが、その分、連射が効き、矢の先に毒が塗っていたために殺傷能力は高かった。
日本側の視点で当時の戦いの様子を描いた「蒙古襲来絵詞(えことば)」では、御家人らに目がけて投げられた鉄炮が爆発し、短弓の矢が人だけでなく馬にも向けられていた様子がうかがえる。
それでも立ち向かっていったため「勇敢にして、死をみることを畏(おそ)れず」などとする元側の記述もみられる。
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