『THE FIRST SLAM DUNK』 の話
※作品の内容に触れてます。
昨晩、『THE FIRST SLAM DUNK』を観てきた。
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凄すぎた。
何が凄かったのか? を考えて言葉にしていかないと気が済まない性質なので、長い余韻の中にいる内に、他の人の考えや視点が入ってくる前に、まずは自分の中にある言葉で、感想を置き換える作業をしておきたい。
ひと晩経って思うのは、この作品は原作の連載終了から26年が経った今において、軸が全くブレていない「語り直し」だと思ったのだけれど、冷めない興奮を抑えつつ、少しだけ順を追って話を進めてみたい。
あふれ出る躍動感と臨場感、そして凄まじい編集力。
あの「山王戦」をアニメーション(動く画)として描き起こされている・・・! 原作の漫画を繰り返し読み倒した身からすると、もうこれだけで感動してしまう。ありがとうございます!という感じ。
まず躍動感がすごい。モーションが完全にバスケットボールだし、試合シーンの冒頭から畳みかけるような選手目線のカメラワークは、あの小さなコートで10人が入り乱れて激しく動くバスケットボールの生々しさそのものだった。フォーカスされていない時の桜木花道の「ふだんの動き」から溢れ出す素人感(場違い感)なんて、漫画ではここまで感じることができなかった類のものだ。「この試合のコートに素人の花道が立っているなんて」といったようなスタンド陣のセリフの説得力が増しまくっている。
臨場感がすごい。視野に収まるだけでも複数名のプレイヤーがコート上を止まることなく動いているし、その視野の奥にぼんやり映るベンチメンバーなども絶えず動いている。ボールが弾かれ体育館に響く音、バッシュと床の間に生まれる「キュッ」という音が、あちこちで鳴り続けている。体育館に居る感じ、コートに居る感じがすごいする。
そしてとにかく編集がすごい。切るところは切って、残すところは残すという価値基準がめちゃくちゃはっきりしていた。原作にはあったあのシーンもあのセリフも切られてしまっているのだけれど、その分、あのシーンもあのセリフもちゃんと残っている。あれだけ濃密な物語を2時間(試合シーンだけでいえば、充てられる時間は実際その半分くらいのはず)の映画にしているにもかかわらず、全く遜色なく観ていらられるのは編集方針(どこを描いて、どこを描かないか)がはっきりしているからだろう。これがまた凄まじかった・・・。
ちなみに、今回は主軸ストーリーに関わらないさまざまな人物のことは「描いてないだけ」で「居ない」わけじゃないんだよな。たとえば観客席で立ち上がる魚住を見たし(見た気がしたし)、原作のあの時と同じ会場で、あの時と同じ人たちが居たはずなのだ。そこは映してないだけ。
「時間あたりの情報密度」がめちゃくちゃ高い。
ともすれば「前編・後編」とかにしないと収まらないような情報量なのに、緊張感ある「2時間の映画」の尺にすっぽり納められている。この作品、IPT(Information Per Time/時間あたりの情報の密度)がめちゃくちゃ高いのだ。たとえば、ブザービーターが決まるあのラストシーンなんか、もっと時間をかけて描くという可能性だってあったはずなのに、視聴に耐えうる限界スピードまで回転数を上げて、体感ではほんの数秒で描き切られていたりする。ももも、もったいない!でもだからこそいい!と思わず歓喜の悲鳴をあげたくなる。時に原作の細かなセリフは可能な限り挿しこまれているのも注目したい点だった。原作を読んでいないと(脳内副音声がないと)聞き取れないのでは? といったレベルで入れ込まれている。これも編集によって骨組みが強固でしっかりとしているから、細部に何を挿しても(最悪小さなセリフ1つが聞き取れなかったとしても)大丈夫という判断なのだろうなと感じた。
完成までの過程で、恐ろしい量を捨てていることを感じられる作品だ。数多の捨象の上に成り立っている表現なだけに、強い。
「潔さ」ーーーそれが原作者であり今回の映画では、原作・脚本・監督を務められた井上雄彦さんの一貫しているところだなと強く感じた。原作も、惜しまれる声のなか最高の状態で最終回を迎えた。今回も、2時間の映画1本という制約下でこそ描けるものがあるとお考えになったのだと勝手に推察する。全くお変わりになっていない。
IPTの高さというのは極めて現代的であるとも言える。単なる過去作の「温め直し」ではないということが、ここでもよくわかる。
題材は一緒なのに、スポットの当て方が異なる。
漫画が原作のアニメーションとして完成度がめちゃくちゃ高いこと、2時間通して常に製錬度の高い情報が詰まっていること、こういった挑戦を常人では想像できないレベルで実現されていて、これだけでもうお腹いっぱいです。感極まってしまいます。
にも関わらず、この映画はそれだけでは飽き足らずに別次元の挑戦をぶっこんできている(なんなんだ・・・)
それが「主人公を切り替える」という超大技だ。
山王戦を現代のアニメーション技術で描くだけでもすごいっていうのに、そのストーリーラインと並行して、宮城リョータのこれまでの物語がタイムラインを往還しながら描き加えられている。ええー!こんなことあります? っていう展開。それに加えて、山王との試合シーンの中にも宮城にスポットが当てられた箇所がかなりの数、新たに描きこまれている。これは「加筆された」というよりは「実は別アングルのカメラは捉えていました、その映像を挿し込みますね」「別のマイクではこういう音も拾ってました」・・・みたいな、そんな感じの印象を受けた。取ってつけた感は一切ない。原作のストーリーを逸脱するのではなく、異なる視座から見ましたよ、みたいな描きこまれ方をする。だからこそ原作を壊さない。破綻を生まない。
破綻と書いたが、シリーズを重ねるに連れて、作品がそれまで築き上げてきた世界観上どう考えても「ありえない」表現を入れ込んでしまい、結果的に破綻している作品はどうしても目についてしまう。(たとえば『踊る大捜査線』シリーズ最後の映画で、恩田すみれが大型バスを運転して倉庫に突っ込んだシーンは思わず引いてしまったことを思い出した・・・閑話休題)
今だから描けた物語?
原作連載時に、宮城リョータを描ききれなかったという作者の想いが起点になっているのではないかという点。言われてみれば宮城は、赤木や三井と比較して試合前から「なんか整っている」感じがあった。いわば「挑戦-ready」な状態。なんでこの人はこんなに強靭な心を持っているんだろう、そこにはどんな物語があったんだろう・・・? そんな問いに対する回答が描かれていた。桜木も、流川も、赤木も、三井も、それぞれのエピソードってあるんだけど、宮城ってちょっと三井とセットなところがあって、確かに描き込み不足と言われてみればそうかもしれない。でも、この映画でこんな風に描かれるまで気がつかなかったな。
歳を重ねれば重ねるほど、「しっかりしろ、流れは自分たちで持ってくるもんだろうがよ」といったようなシーンに象徴される、宮城の強さに惹かれる。あの強さの裏には、痛みを伴う物語があったのだ。
宮城の半生を描くパートでは、『バガボンド』(たとえば海辺の洞穴のシーンや、舞い落ちる雪の描写)や『リアル』(たとえば1on1のシーンや、原付のシーン)が想起される表現もたくさんあった。
ひとつの仮説が頭をよぎる。26年前、宮城リョータの物語は、描かれなかったのではなく、描けなかったのでは・・・? と。『スラムダンク』のあと、作者は『バガボンド』『リアル』といった作品で『スラムダンク』よりも直接的に「生と死」の領域に踏み込んで物語を描いていった。そして両作品を繋ぐ問いの1つは「人にとって強さとは何か?」である(と個人的には思っている)。2つの作品を通じて「強さ(あるいはそれを逆照射した「弱さ」)」に、より深い入射角で迫ってきたからこそ、宮城の物語を今回のような形で描けたという側面がきっとあるのだろう。
宮城の物語は、26年後にこうして描かれるために取っておかれたのかもしれない・・・そんなふうに倒錯的に思ってしまうくらい、今回の描かれ方が良かった。
「置き換え(replace)」でも「更新(update)」でもなく、「語り直し(retelling)」
高度なアニメーション、驚くべき情報圧縮率、編集の巧みさによって、原作では単行本9巻(全31巻中)におよぶ1試合の物語を、恐ろしい強度で、約1時間の映像で表現。この時点でもうかなりありえないのだが、その奇跡(とどうしても呼びたくなってしまう)によって生みだされた「時間」によって、2022年の今だからこそ描ける宮城リョータの物語が顕然として立ち上がった。
井上雄彦さんの言葉をヒントに、もう少し考えてみる。
作者の言葉のいくつかを補助線にして思うのは、この作品は、今を起点とした「語り直し」の表現の1つ(one of them)なのだということだ。「置き換え(replace)」でも、「更新(update)」でもなく、「語り直し(retelling)」。物語の核は一緒(同じ根)なのだけど、別の語り口(別の幹)。
「置き換え」であれば、原作や過去のアニメ版はある意味では棄却されてしまう。原作を大きく逸脱した表現やストーリーを重ねる(やりすぎる)と、原作は崩れてしまう。でもそうはなっていない(抑制されており破綻していない)。
「更新」であれば、原作や過去のアニメ版を元に手を加えられる形となっていただろう。そのような意味において、山王との試合パートは「更新」に近いものがある。しかし、宮城のパートは「更新」(前の状態を改めること。前の状態から改まること)の域を明らかに超えている。
劇場公開を前にして、以前のアニメ版から声優陣を一新したことが発表されたが、賛否両論あるこの方針はこの点から考えると合点がいく。声というのはキャラクターを形づくる大事なものだから、同じ声優陣が演じるとなれば自ずと「更新」路線に入りこむだろう。また上記ポッドキャスとでも原作者として語られている通り、声優自身の立場になれば新しい作品に向けて新たに調整することはすなわち過去の作品を捨てさせることになる。「置き換える」ことになる。今作はその道を選ばなかった。
物語の核(キャラクター、ストーリー、セリフ、設定)はそのままで、今の視座から語り直す(re-tellingする)試み。それがこの『THE FIRST SLAM DUNK』なのだと思う。・・・もはや神話。
「語り直しが可能」とは何を意味するか。
もう1つだけ付け加えるとすれば、この映画を観た後に、元気づけられたり、勇気づけられたりするのは、語られた内容(ストーリー)に依るところが大きいとは思いつつ、語られ方(ナラティブ)も大きな役割を果たしているように思えてならない。
原作は、桜木花道を主人公として桜木花道を中心にストーリーが語られていた。今作で語り手は大胆にピボットし(破綻しないために軸足が変わっていないのが大事)、宮城リョータを主人公とした語り直しが行われた。つまり理論上は、いくらでも語り直せる可能性が僕らには示された。赤木でも、三井でも、流川でも、小暮でも、桑田でも、それは可能だ。
ここには、まだ描かれていないだけで、まだ意味づけられていないだけで、ひとりひとりの物語は間違いなく在るという強い肯定の力が作用している。「湘北に入ってよかった」という石井君のセリフが思わず涙を誘うように、僕らはコート上の彼らと同じ地平に立っており、僕らには僕らの物語があるという大きな示唆を与えてくれる。
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