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文化の四象限と、大喜利の民主化

残念ながら、このところの状況を鑑みて、3月8日に佐久穂町の古民家ゲストハウス内津亭で予定していた、みんなでつくるローカルな大喜利の会(HOPPONグランプリ)は延期とした。開催延期を残念がってくださる声を思っていた以上に熱く寄せてもらい、決断してからの方がより残念な気持ちが強まる。ただ、1人でも「嫌な予感がする」場合はやめておいた方がよいという気持ちは変わらない。というわけで時機を見て、また企画をしますので、皆さんぜひ遊びに来てくださいね。

さて、以下はその大喜利企画に関する余談。

今回の企画の背景にあったのは「大喜利が好きだから」「大喜利をやってみたかったから」というシンプルな動機。

一方で、副次的には、「大喜利の民主化」というコンセプトを自分の中では小さく掲げていた。すなわち大喜利を「見るもの」から「するもの」へと変容させること。カラオケによって歌というものが聞くものや見るものから歌うものに変化したように、みんなでつくる大喜利によってお題(=問い)と回答という動作が、見るものから、自分が答える、場合によっては自ら問いを立てるものに変化する・・・みたいなことがありえるんじゃないだろうか。そんな仮説から生まれた。

このあたり、企画初期に人に説明してもあまりうまく説明しきれなかったのだけれど、いま読んでいる本(宇野常寛さんの『遅いインターネット』)にその運動のことが何百倍も美しく説明されていた。

『遅いインターネット』では、20世紀前半から2010年代にいたる文化現象を4つのカテゴリーに整理して(文化の四象限)説明されている。

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第一象限の非日常×他人の物語(権威主義)から第二象限の日常×他人の物語(テレビポピュリズム)への移行が、20世紀に発生した現象だ。そして第四象限の非日常×自分の物語の領域で行われたのが 2010年代初頭のソーシャルメディアによる「動員の革命」(インターネット・ポピュリズム)だ。だとすると、残された第三象限の日常× 自分の物語からの政治的なアプローチだけが、まだ十分には試みられていない。
(宇野常寛『遅いインターネット』p.127)

つまり、このたび企画した佐久穂で行う(はずだった)大喜利「HOPPONグランプリ」は、一方でテレビ番組「IPPONグランプリ」のフォーマットをそのまま換骨奪胎的にパクって他人の物語ではなく自分の物語として語り直し(②→③の動き)、もう一方では出題者も回答者も採点者も「自分たち」が演じて日常の延長線状にある場をつくる(④→③の動き)ことで、大喜利を民主化することを目的にしていたのだ。

ああ、得心。

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