食と民主主義 #D2021
#D2021 企画 Dialogue vol.2 食と民主主義を考える
2020年8月22日にライブ配信された、未来に向けた対話
今回も、前回と同じメンバー。前回は「ごみ」という無関心になりがちなテーマから、今回は「食」という関心が高いテーマへと変えて、これからの生き方を探る。
前回の記事はこちらから
出演者
後藤正文(ミュージシャン/ASIAN KUNG-FU GENERATION)
斎藤幸平(経済思想家)
藤原辰史(歴史研究者)
永井玲衣(哲学研究者/D事務局)
田代伶奈(哲学の人/D事務局)
篠田真央子(編集者/D事務局)
篠田ミル(ミュージシャン/D事務局/yahyel)
食を選ぶ基準
オープニングは、このような問いかけから始まった。
「あなたはどんな基準で食を選んでいますか?」
どのような基準と言われても、普段何も考えていないのでパッと思いつかなかった。本当に何も考えていない。早速反省してしまう。
出演者の対話の中で挙がっていた選択肢から、下記のような視点があり、人それぞれ違うことを知った。
・安心感(国産かどうか、無農薬か、等)
・クオリティ(美味しいかどうか)
・値段(安いかどうか)
出演者の話を聞いて自分の食の選び方を整理してみると、「コストをかけないこと」と「依存症」という視点で選んでいると思う。
一人でご飯を食べるケースを考えると、依存症的に食べたくなるものがあれば、それを選ぶ。代表的なものは「ラーメン」である。その場合は、コストに対しては、あまり意識はしない。
依存症的に食べたいものがない場合、または、抑制できる場合、完全にコストで選ぶ。例えば吉野家・松屋といった牛丼や、丸亀製麺などのうどん、そしてやはりマクドナルドなどのファストフードである。この場合のコストは、金銭的なコストだけでなく、すぐに済ませられるという時間的なコストも重要な要素だと思う。
食に対して、なるべくコストをかけたくない。その志向が強い私のような人間は、不可視化されている食の生産過程に対して全く関心を持たない。だからこそ、今回の対話で気付かされた地球中で蔓延る食に関する問題は、全てがヘビーブローのようにズシンと響いた。
吉野家の牛丼
安くておいしいが、こんなに安くていいのか心配になるときがある
――何かしら労働の搾取が行われているのではないか。
先に述べたように、私も牛丼が好きで頻繁に食べる。最近は、牛肉はCO2排出の問題を抱えているとは思っていたが、その安さ故に目をつぶって美味しく頂いていた。しかし、「労働の搾取が行われているのではないか?」といった観点は考えたことはなかった。
牛肉が生産されてから牛丼になるまでの過程で、そこまで安い価格を実現するために、反映されていないコストがある。そして、それらのコストは不可視化されている。そのような現実を知らずに安く美味しく食べている。その現実を店内のモニターで映したら誰も食べられなくなる。
斎藤幸平さんは、そのように主張する。正直、どこまで信憑性があるのか分からない。そうに違いないという話なのか、当たり前のように労働の搾取があるのだろうか。そういった意味では、本当にモニターで現実を見せてもらいたいと思った。
廃棄される食料(フードロス)
ここで問題を出させていただきたい。
世界の年間食料生産量は、約40億トン。
そのうち、廃棄される量は何トンか?
答えは、約13億トン。世界の食料は、その1/3が廃棄されている。もはや桁が多すぎて、カエサルの借金が数百タラントン*と言われてもピンと来ないのと同様に実感がない。(*古代ギリシャ・ローマの通貨単位)
では、日本に関する問題。
日本の年間食品廃棄物量は、約2550万トン。
そのうち、本来食べられるのに捨てられる食品の量(=食品ロス)は?
約612万トン。日本で廃棄される約1/4の食料がまだ食べられる。これは本当に由々しき問題だと思う数字だ。
食べ物を粗末にしているのは誰か
日本人は「もったいない」文化があり、食べ物を無駄にしないという迷信がある。現実はどうか。
深田えいみさんのツイッターで、RTの数だけ七味をかけるという企画を実施したところ、6万リツイートを超えた。その結果、七味を大量に使うこととなった。
この大量消費に対して、食料を無駄にするなという意見が集まり、炎上したらしい。それはそうだろうと予想できるが、斎藤さんの指摘は、深田えいみさんに対する批判ではなかった。
一人の芸能人の行動に対してオンラインで批判することよりも、もっと身近にあるコンビニで毎日捨てられ続けてる食品ロスに問題意識を持つべきだという主張だった。きっと大量に廃棄されているだろうなと思いながらも、便利な世の中の代償として問題視しない。そのようなシステムが出来上がってしまっていることが本質的な問題ではないか。
確かにそうだと思う。1/4の食品ロスの多くは、便利な世の中の代償として目をつぶって、見て見ぬふりしている結果なんだと思う。それなのに、「こんなに食べられるものが捨てられてるの?」って驚いてしまう自分に、この社会のことを全く理解していない自分を知った。
生産から消費までの無関心
コンビニやスーパーに大量に並ぶ食料品。私たちは、それが当たり前だと思っている。様々な危機により、生活必需品がスーパーに並ばなくなったとき、私たちはパニックを起こす様子を何度も見てきた。お店に食料品が並ばないとなったら一大事であり、お店に十分な食料品が並んでいることが、私たちの生活に安心を生み出している。もはや、食べるために生産しているというよりも、スーパーに商品を陳列させるために生産している。
最近では、インスタ映えするような食を求める流れも生まれている。食の記号化が、新たなエンタメ産業としての食文化を作っている。
これは、人類が食というものを進化させてきたと捉えるべきだろうか。食べる目的を見失っていると捉えるべきだろうか。マインクラフトのクリエイティブモードのごとく、湯水のようにあらゆるものが生み出せる地球であれば、人々のクリエイティビティが豊かな文化を作ってきていると捉えることができるかもしれないが、地球は有限ではない。
有限であるという小学生でも知っているルールに目を瞑り、食べるという目的を見失って発展させた食文化は、やはり豊かな食文化と表現するべきではないと感じた。今一度、食べるという目的をしっかり見つめ直して、食品が生産されてから消費されるまでに、どんな課題が潜んでいるのかを考え直す意識を持たないといけないと思った。
モノカルチャーと砂時計構造
世界中で誰でも同じような食事ができるような時代になっていることを、豊かな食文化と呼ぶべきではないという話も出ていた。そのために、世界中で5種類の肉と12種類の穀物を大量に作るような開拓が進んでいて、豊かな生態系が失われている。そのような、画一化された農作物のみを生産することをモノカルチャーと呼ぶそうだ。
モノカルチャーでは、一つの品種が大量に生産される。昔の話ではあるが、バナナ農園で疫病が流行ると、バナナが全滅する。その結果、その農地は捨てられる。そして次の農業用地が開拓されて、多様な生態系が壊されていく。
大量消費のための大量生産。その間を仲介するのは、ごく一部の企業であり、その構図を砂時計構造と呼ぶらしい。私たちは、砂時計のくびれを通ってきた食料を日々目にしているが、その向こう側や途中のブラックボックス化された過程を知らずに生きている。
まず、何をすべきか
聞けば聞くほど、この世界には解決すべき問題がたくさんあり過ぎることに気づく。問題があり過ぎて、全てに否を唱えていたら、おそらく何もできなくなるだろう。何をしたらいいか分からなくなる。
食は身近なものだから、誰でも行動を取りやすい。しかし、一人でエシカルな意見を唱えていたら、仲間の中では、面倒臭いやつと思われたり、みんなでご飯を食べなければいけないケースで、和を乱すことになってしまう。どうしたら良いのだろうか。
まず、自分で作ってみることだと思った。
このnoteで学びを語るだけでなく、自分が何気なく口にしているものを、自分で作ろうとしたら、どのようにしたら作れるのかを知ることだと思った。
永井さんは、コロナ禍の中で、自分でコーラを作ろうとした話があり、大量の砂糖を入れる必要があることを知って驚いたという。まず、コーラを作ろうとすることに驚きだが、まず、問題がありそうなものを作ってみることが大事なのかも知れない。
後藤さんは、牛や豚を自分で殺して食べることはできないと思ってから、鶏肉と魚しか食べれなくなったという話をしていた。しかし鶏ですらさばいたことがない人間がさばいて食べるのは相当に至難の技だろう。
これまでコストをかけないことだけ考えて無関心になっていた食に対して、もっと積極的に取り組んでいかなければと思った。
斎藤幸平さんの言葉が心に刺さった。
私たちは資本主義の中で土から切り離されてしまっている。土が社会の根幹にある。土に触れるという体験があれば意識が変わってくる。
もっと土に触れて自分で食べるものを作ることが必要だなと思った。それは自分の食べ物をそれで賄うということでは無意味ではあるが、土が自分にとって大事なものであることを知るという意味で重要なことだと思った。
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