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「野老山教授」は"誰"だったのか。

ここでは彼を「限りなく一個人として存在する人物」として見ます。
性質上、彼、ないしは彼の世界を「創作物」と扱う場合があるけども、決して「世界、存在の否定」を目的としてはいないことを最初に明記しておきます。

本来はとんでもない文量の解釈を持っているけど、全部書いてたらキリがないのでかなり端折る。それ故に話が飛ぶ。

なお、ここで書く「世界」は「彼らの住む世界」であり、「私たちの住む世界」ではない。

また、書き手は創作する側でもあるので、それなりの創作観を持っている。そこがどうしても入ってしまうのは最初にご了承いただいた上で読んで欲しい。


「野老山教授」はいま何処に在るのか。

彼は、「黛灰の物語」において、主人公である「黛灰」の師匠役として存在していた。
現在、野老山教授は世界に”元々いた”ことになっている。要するに、いま野老山教授は世界にいない。恐らく世界では死亡すらしていない

彼はリスナーの投票によって削除された。黛は自分が殺してしまったと考えているようだけれども(削除する文面が「黛灰は」だったということと、彼の過去のサブ垢でのツイートより)、事実は削除である。

彼らの世界には当然死の概念が存在している。現に、黛の両親は事故により死亡したとされている。

黛が殺した可能性は、世界としてはあり得ない。
または失踪という形になっていて、ご家族や親類などが失踪届を出しているかもしれない。しかし黛は最後の配信で「師匠が元々いた世界」と発言した。この発言から「世界から存在自体が消えている」と仮定できる。

ここで疑問に思うのが「人が一人消えた状態で、何故世界が問題なく機能するのか」ということ。

「野老山教授」は「黛灰」の「師匠役」だった。

何故世界が問題なく機能するのか。それは、「野老山教授」は「黛灰」の「師匠役」だったから。

「黛灰の物語」の為に生まれた世界は、黛灰の為に機能していた。今は彼の世界は彼の世界として独立し、所謂創作主の手を離れても存在し続けるくらい世界として確立されたものになっている。だけども、野老山教授が世界から出たのは、まだ世界が「黛灰の物語」の為の世界だったとき。削除された時も同じ。

「黛灰の物語」に、"師匠役"である彼の設定はどの程度必要だろうか。

「野老山教授」は、「黛灰」の師匠役だった。それ以上でも以下でもなかった。
恐らくあの時点で彼には、彼の家族や友人といった「"黛の師匠ではない"野老山教授の情報」が存在していなかったんじゃないだろうか。現に黛も、野老山教授が普段何をしているのかに対しては「知らない」「よくわからない」等と発言している。年齢さえもあやふやだった。

彼のそういった情報は、物語としては必要ないのだ。主役は黛灰。野老山教授はその師匠役。その状態が維持できるだけの情報があればいい。

野老山教授が消えても世界が問題なく機能しているのは、「黛の師匠という情報しかもっていない人物だったから」
友人も家族もない、黛の師匠以外は何もない人物が消えても、誰も何も気付かないし困らない。

「野老山教授」は"誰"だったのか。

彼は、一人称を2つ持っていた。「私」と「僕」だ。気が抜けたら変わるのかと思っていたけども、最後に黛と対面した時「私は……僕は」と一人称を言い換えた。本人の中で何かしら意味はあったのだと思う。
また、頻繁に登場した「ボクだけがカレをみてあげられる」という文。これは、彼が自らの世界を出て、最初に抱いた思いだったのではないだろうか。
文の中に漢字も何もない。ある種幼い子供のように感じる文。このとき初めて設定外の自我が芽生えたんじゃないかと個人的には思っている。

以上から考えると「僕」を使うときは「設定外」の自我の可能性があるけど、彼の一人称は定まらなかった。一人称は自分を指す言葉。それがバラバラだった。彼の姿や声がなかったことも、「そこまで設定が彫り込まれていなかったから自我が確立できなかった」と考えると少し悲しい。

野老山教授には「黛灰の師匠」という役柄しか与えられていなかった。それ故に黛にしか縋れない。黛にしか目が向けられない。黛しか見えない。

野老山教授が強く黛に執着したのは、黛が天才だったからでも、自分の弟子だからでも、疑似的な親心を抱いていたからでもない。「野老山教授の存在自体が、黛灰の為に作られていたから」

全てを「黛の為」に作られ、さいごまで自らを捧げ続けた彼が、今は少しでもあたたかい場所にいることを願います。


追記/創作における名づけ

※物凄く個人的な創作観における話です。

野老山教授のキャラクター名は「野老山教授」だった。元々フルネームは出ていなかったけれど、エンドロールに出ていた名前も野老山教授だったので、少なくとも物語においては名前がなかったんだろうと思う。

創作における名づけは、非常に重要な意味を成すと個人的に考えてる。
普通の人間と同じく、歴史はその対象が生きている限り自然派生していくものだ。
野老山教授には下の名前がない。「名前を付けられた地点(出生)」が存在しない。現状下の名前の位置にある「教授」以前の地点がないのだ。
これが、私が「野老山教授には”黛灰の師匠以上の情報がない”」と考える理由の一つだ。

「職業指導士」という要素は、施設ヘ関わる上で必要だった。「心理学(行動/学習)を専攻している」という要素は、黛を所長から任される上で必要だった。「教授」は、それを専門とする上で必要だった。それ以前の過去・情報は「黛に関わる上で必要ない」

作家がそこまで掘り込むタイプだったら土下座しよ。

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