エリスの家
今より遥かな過去か未来かどちらかの世界に、人の住まない、だだ広い草原がありました。
草原の端は崖になっており、そこに橋が架けられ、向かいの草原の端とつながるようになっていました。
この崖を、縄ばしごか何かを垂らして降りていったところに、一軒の粗末な家が建っているのですが、何しろ危険な崖ですし、誰もここを通りませんから、普通の人は誰一人その家の存在を知りません。
知っていたのは、この家に住む魔女とその夫と、この草原に修行にやってきた一人の僧侶だけでした。
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粗末な家には小柄な200歳の魔女が住んでいました。200歳とはいっても、見た目は人間でいえば20歳くらいに見えます。きっと、若返りの魔法を使っているのでしょう。名前を、「エリス」といいます。エリスは赤くて長いさらさらした髪をして、普段は赤い魔法のローブをまとっています。そして、一緒に住むエリスの夫は、「エリオット」という名前で短い黒い髪の、痩せて背が高い人間の女性でした。この夫婦は二人で、誰もいない草原の崖下の粗末な家に暮らしています。エリスがどうしても人を嫌いなので、ここに住む以外に選択肢はありませんでした。エリオットは、エリスを生涯支え続けると決めてから、名前を今の名前に変えて、エリスの夫としての暮らしを始めました。それはたったの五年前の話です。
二人で暮らしていますと言いましたが、それも一年前までの話でした。今は、夫婦は子供を作っています。エリスとエリオットは、二人で絵画を作るのです。エリオットがキャンバスに油絵の具で、等身大の幼い子供の肖像画を描くと、エリスがその絵に魔法をかけます。すると、絵の中から、その子供が実体を持って出てくるのです。声も心も持った状態で。
そうして生み出された子供は、エリスたちの言葉で『コド』というようです。
夫婦は今までに四人のコドを誕生させました。
エリスは、コドに名前をつけませんでした。コドたちはしばらく、1、2、3、4といった番号で呼ばれていましたが、ある日たまたまこのあたりを修行の旅で訪れていた僧侶のシキから、四人に名前をつけてもらうことができました(名付けも、僧侶の大事な仕事でした)。イスキ、ネリム、ロウ、カータといいます。ネリムだけが女の子でした。人間を嫌いなエリスですが、徳の高い僧侶は別のようで、シキからもらった四人の名前を、エリスはすぐに気に入りました。こうして崖下の家族は新しい日々を賑やかに暮らし始めたのです。
エリスは幼いコドたちに、自分が作った、エリスとエリオットにしか通じない言語だけを教えました。社会で通じる言葉を教えないことで、彼らが大きくなったのちに、社会へ出て行ってしまうのを防ぐ狙いでした。もちろん、そんなことをしなくても、このような環境ですから、彼らは社会を知らずに育つでしょう。だけど、念の為ということでした。
崖の下も草原になっています。エリスたちは草原に吹くさわやかな風をひとりじめできました。何しろ誰もいないのです。横になって、コロコロしても、誰の邪魔にもなりません。だから、夫婦は、コドたちをそのようにして遊ばせました。テレビもゲームも何もなくても、楽しいことはいつでも家の外にありました。こうして、コドたちは毎日そう遊んで、育ちました。気づくと、コドたちがキャンバスの外に出てから六年の月日が経っていました。
イスキにはいつも赤い服を着せていました。イスキは家の手伝いが好きで、料理を作ることに興味があります。家事はエリオットの役目でしたから、エリオットが新しく考えた料理のレシピをイスキに教えながら、一緒に食事を作ることもしばしばありました。そしてイスキは、調理器具の中で、お気に入りのものができました。大きな深型のフライパンです。イスキは、そのフライパンに、「フライタン」という名前をつけました。「フライタンは悪い勇者を倒す魔女の名前だよ! ぼくが考えたんだ!」それを聞いたエリオットは、エリスの過去を思い出して苦笑いをしました。
ネリムにはいつも青い服を着せていました。ネリムは読書が好きで、エリオットの棚の中の本は、全て読んでしまっています。でも、この家以外の世界があることを知らないため、この家にある本が、この世界にある全ての本なのだと思っており、書店や図書館へ行ってみたいなどという考えは浮かぶはずもありませんでした。だから、ネリムは、この世界の全てを知ってしまっていて、この世界はなんて単純でつまらないのだろうと思っているのでした。また、どんなにネリムが本を好きでも、決して読ませない本がエリスにはありました。それは、赤いハードカバーの厚い本で、エリスの魔法の元となることが書かれている『魔法書』です。魔法書はネリムの知らない魔法語(魔女たちの間で話される言語)で書かれているため、内容をネリムが知ってしまうことはないと思われますが、とても大事な、かえの効かない書物であるため、コドたちには触らせるのも嫌であるようでした。
ロウにはいつも黄色い服を着せていました。この、コドたちの服というのは、エリスがミシンを踏んで作ったものなのですが、ロウは特に自分の服を気に入り、エリスに頼んで何着も作ってもらいました。コドたちは、家の中で自分のカラーが決まっていることについて、何の疑問も抱かなかったので、たまには違う服を着たいと思うこともなく、ただ自分の色を毎日身につけるだけでした。また、ロウは文字を書くことが好きで、家の中にいる時は大抵、ノートに文章を綴っていました。もちろん、全てエリスの作った文字でです。気持ちや考えを書き出すのは気持ちがいいようです。疲れると外に出て、また草原に寝転がります。
カータにはいつも緑色の服を着せていました。カータは絵を描くのが好きでした。エリオットが油絵を描く人なので、カータはエリオットの絵を見学して、自分でも油画をやってみようとしました。が、人というのは、見たことのないものは描けません。カータの描く絵はいつも、草原なのです。まず、線を引いて画面を二つに割って、次に上を青、下を黄緑色に塗ると、出来上がります。いつも同じ構図でしたが、カータは、それでも、満足でした。絵の具の色を毎回微妙に変えているからです。カータにとっては、同じ絵は一つもない、どれも自分の大切な原風景なのでした。油絵以外にも、スケッチブックに水彩絵の具で草原を描くこともありました。
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エリスは魔女だから町では暮らせません。町には勇者を育成する学校がありますが、自分は勇者らの討伐対象にされているので物理的に身を隠さなくては殺されてしまいます。勇者を殺して食べてしまう魔女もいますが、エリスは勇者を食べたくはありませんでした。人間自体が嫌いなのに、人間である勇者を食べて自分の体に取り入れるなど考えただけで吐き気がします。それでもエリオットに心を開いたのは、エリオットが本当は自分の妹だからでした。エリオットは当時の記憶をなくしていますが、エリオットはエリスの母(魔女)の腹から生まれた、魔力を持たない人間の女の子でした。エリスとエリオットは本来、一緒に育つことはできないはずでした。人間だとわかると、すぐに母親に捨てられたからです。このころ、魔女たちは勇者対策のためひとところにとどまらず移動しながら生活していました。すでに180歳のエリス(見た目は18歳)は、妹を捨てた地点まで一人で戻り、まだ幼いエリオットの手を引いて、魔女の群れから外れて、二人で別方向へ、南の草原に向かって行きました。そしてひっそりと二人きりで暮らし始めたのです。魔法で、生活に必要なあれこれを作り出して。ですが、エリオットは人間だから姉のようなことは何一つできません。エリスが魔法を使うたび、エリオットの心は荒んで行きました。エリオットがエリスに心を開いたのは、エリオットが15歳で思春期の難しい時期を迎え、「自殺したい」という発言でエリスを泣かせた時が初めてでした。「魔女でも死ねば地獄に落ちるのよ、なんでわからないの!」と怒鳴り、泣く姉を、その時初めて、少女だと認識しました。
(この魔女は私のことが大切なんだ。自殺したいなんて明らかな言葉を使って傷つけてしまった。ああ、後悔。言うんじゃなかった。これからは、一生涯かけて、エリスを幸せにしよう)。
名前を「エリオット」に変え、エリスの夫としてエリスを支え続けようと決めたのもこの時です。