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忘却しえぬもの
アズマという女性が、A大学付属病院の精神科の待合室で、茶色のソファーに座っていた。そのまま二十分ほど待たされたのち、聞き慣れた主治医のセナツ先生の声で放送が流れ、アズマは診察室に呼ばれた。
「こんにちは」とセナツ先生は言った。彼女はテーブルの奥に座り、右の机の上に置いたコンピュータに体を向けて、顔はアズマのほうを向いていた。
アズマはテーブルの手前の椅子に座った。「調子はどうですか?」とセナツ先生が尋ねてきた。アズマは少しはにかんで、「今日は元気です」と唱えた。いつも通りの切り出しかただった。
するとセナツ先生はふんふんと頷きながら、コンピュータのキーボードに手を置いて、何かをカチャカチャと入力し始めた。そして再びアズマのほうを向いて、「ここ最近の数ヶ月間の調子はどうでしたか?」と尋ねた。
「過去のこと……学校にいた頃の嫌な記憶を思い出して、死にたくなることが頻繁にありました」とアズマは答えた。
セナツ先生はふんふんと相槌を打った。
「例えばどんなことですか?」
アズマは一瞬、ためらったような様子を見せた。そしてやや遠慮がちに、次の言葉を話し始めた。
「あの、わたし、ここの科に通い始めた頃、先生に日記をお見せしていたと思うのですが……」
「はい。あれ、すごい作品ですよね」
「は、恥ずかしいです」
「恥ずかしがることないですよ」
「でも……人に見せる文章は、何度も推敲され整えられたものでなければなりません。それなのにわたしは、いままで、誰彼構わず、わたしの考えを伝える時、日記を読んでもらうようにしていました。一発書きで、書きっぱなしの日記を。セナツ先生のみならず、専攻の教員たちや、大学のソーシャルワーカーさんにまでそうしていました。彼らはわたしのその行為を咎めはしませんでしたが、後からこれはすごく恥ずかしいことだったのだと気づいて、ひどく後悔したんです。もう恥ずかしくて仕方がない……」
セナツ先生はまた、キーボードをカチャカチャと鳴らした。そして、うーんと唸って、言った。
「文章に対するね、想いが変わったのかもしれませんね。綺麗に整えられた文章でないと見せちゃいけないっていうプライドみたいなものが出てきたのかも」
「そうなのでしょうか……」
「アズマさんの文章、わたしはすきですよ。何というのかな、ハッとする視点があって」
「そんなことないです。あの過去をなくしたいんです……」
「嫌な記憶をなくしたい気持ちが強い感じですか? どうかしら?」
セナツ先生はアズマの目を見て、問いかけた。
「はい……過去を忘れたいです」
「そうですか……。忘却のお薬がありますが、処方いたしましょうか?」
「忘却のお薬……?」
アズマは意外なその言葉を復唱した。
「嫌な記憶を消して心を楽にするお薬です。作用は一時的ですが、心を囚われちゃって苦しいっていう状況を、改善することができます」
「ああ、ぜひ。ぜひお願いします。実は過去の嫌なことはこれだけじゃないんです」
「副作用で、大切なことまで忘れてしまうことも人によってはあるそうですが、それでも大丈夫ですか?」
「苦しいよりはずっとましです。処方していただきたいです」
「わかりました。『ナカッタコトニスール』というお薬を出しておきましょう。頓服のお薬なので、二十回分、出しますね。恥ずかしい記憶を思い出して心が苦しいなっていう時に使ってください」
「ありがとうございます」
それからアズマは、忘却の薬を飲み始めた。
確かに作用は一時的なものだったが、記憶に苦しめられている時にそれを飲むと、忘れて穏やかな気持ちになることができた。こころなしか、飲む回数が増えるごとに、思い出すこと自体、少なくなっていくような気もした。飲むごとに、脳の中で記憶そのものが消えていく感じだ。気のせいだろうが。
しかし、大量の嫌な記憶が薄れていく中で、忘れたいのに忘れられぬものがたったひとつあった。
工藤ヒロタカ。
アズマが受験生だった頃、世話になった高校の教師だ。
もう二度と会うことはないだろう。しかし、もう長いことずっと、彼のことが気がかりだった。アズマはなぜか、食器を洗う時に彼のことをよく思い出した。
あんなに支援してもらったのに、アズマは結局、病気になって大学を辞めることになってしまった。その罪悪感がどうしても薬では消えなかった。
なぜだろう。それは、過去のことではなくて、「いま」のことだからではないのか。これは済んだ話ではなく、いま現在進行形でアズマを取り巻いている問題であるからなのかもしれない。
自分の茶碗を洗いながら、アズマはふっとため息をついた。
「わたしが大学で無茶をして、病気になって退学することになったことは、なかったことにはできないみたいだな」