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想い出

美術大学に進学して一番よかったことは、ホックと出会えたことだと思う。

最初の全体ガイダンスの後、それぞれのクラスごとの教室に分かれて、ガイダンスの続きを受けた時のこと。クラスメイト全員の自己紹介も終わり、担任の話も済んで解散した直後に、わたしに話しかけてきたのが彼女だった。
「ええと、なにさんだっけ?」

「出雲幹南。」と、わたしの名前を告げると、彼女は嬉しそうに頷いて、「いずもかんな。じゃあ、今日からあなたの呼び名はイジだ」と言った。そして、「僕、大栗北都。僕のことはホックって呼んでね」と言った。
女の子なのに僕ということに最初は違和感を覚えたが、それも彼女の個性なのだろう。ホックは、少し変わった子だった。「クリクリ星から来たんだ。本名はホック。大栗北都は地球での仮の名前。」そんなことも言っていた。

ホックとわたしは、同じ電車を使って大学に行き帰りしていた。入学した翌日(授業のある日)、ホックと一緒にアトリウム棟に向かって学内の広場を少し歩く時に、そびえ立つシンボルタワーを見上げてわたしが「なんか、美大生になったみたい」と言うと、彼女は、「もう美大生でしょ」と言って笑っていた。

わたしたちの美大の構内には、かつて米蔵を改装して作られたという、赤い切妻屋根の実習棟が八つ並んで建っていた。それを眺めながら、わたしは、「赤い屋根、かわいい」と呟いた。ホックは、「え? 急に?」と驚いて、そして、「イジ、景観デザインに行ったらいいんじゃない?」と言ってきた。

わたしは物作りがやりたくて美大に進んだ。だから二年次に分かれるという専攻選択では、迷わず「ものづくりデザイン専攻」に行くつもりだった。それなのに、希望調査の時になぜか「景観デザイン専攻」と書いてしまったのは、あの時ホックに言われたその言葉が、心のどこか深いところに引っかかっていて、その暗示にかけられてしまったからなのかもしれない。

わたしとホックは同じサークルに所属していた。アルコネクト、という名前の、ものづくりと物販をするサークルだ。年に一回開かれる学祭では、自分たちが各々作った作品を、寄せ集めて値段をつけて、実習棟の前の通りで、ブースを構えて出店した。わたしが売り子さんをやる時、ホックも一緒だった。ホックは、フェルトで作った小さなマスコットキャラをいくつか出品した。わたしは、刺繍糸で作った手織りのコースターを三枚、出品していた。

サークルの他の人が作った作品は、描いた絵をプリントしたクリアファイルだったり、Tシャツだったり、缶バッジだったり、マグネットだったり、どうやって作っているのかとても想像がつかないものばかりだった。みんな、プロみたいだな。それらをまとめて売っているわたしたちに、あるお客さんが「これ、どうやって作ったんですか?」と尋ねてきた。わたしは「すみません、わたしが作ったわけじゃないので、わかりません……」としか言えなくて、悔しかった。


二年生になると、ホックは、自分だけの道を歩むようになっていた。髪の色を頻繁に変えて、ピンク色になったり、紫色になったりして、耳にピアスも開けていた(どちらもわたしがやろうとはとても思えない行為だと思った)。さらには、いつか東京に出たい、と言っていた。わたしは地元でいい、そう思っていた。そういうところがわたしとホックでは対照的なんだ。そう思っていた。

二年次の最終希望調査でも、わたしは用紙に「景観デザイン」と書いた。景観デザインは、建築のこととか、ランドスケープを研究する専攻で、綴れ織りとかわたしのやりたいことができるわけじゃなかった。そもそもわたしのやりたいことをやらせてくれる授業は、この大学にはなかったんだ。その専攻でやりたいことがあるわけではないけれど、景観デザインの座学を受けた時、「この分野のことを知らない自分が恥ずかしい」と、確かに思った。そうしてわたしは30度刃の黒いNTカッターと友達になり、図面を描いて、スチレンボードを切っては組み立てる、そういった日々を過ごしていた。

ホックは、グラフィックデザイン専攻に進んでいた。

わたしたちの大学は小さくて、一、二年生の制作するスペースとかアトリエはほとんどないに等しかった。それでわたしはよく、全専攻共用の、「共通デザイン室」でスチレンボードを加工していた。

ある日のことだった。スチレンボードの加工が、うまくできない。作業が全然思うように進まない。窓の外はとっくに暗闇に染まっている。お腹がすいた。最終電車に間に合うかな。そんな時に、わたしを嘲笑ったのはわたしのNTカッターだった。
「そうか、おまえも、そう思うか。」
わたしはカッターの鋭利な刃を自分の首元に近づけた。
「死ね。」
そう呟いて喉元を刺そうとした。その時だった。

横にわたしの手を抑えた人があった。ホックだった。コンピューター室で、課題をやっていたはずの、大栗北都だった。
「何をしている。やめろ」「このカッターは、イジが、景観デザインを旅するための大切な戦友だ。自殺するためのもんじゃない」
こんなに低い声で静かに言うホックを見たのは初めてだった。専攻が分かれて、ホックと会うことが少なくなっていたから、久しぶりに見たホックの姿に安堵したのか、それとも自殺を止めてくれて嬉しかったのか、わたしは泣いた。
そして、それ以来、わたしがカッターで自殺をしようとすることはなくなった。

しかし、飛び降りて自殺をしようとしたことはあった。
「学校が課題をどしどし押し付けてくるのは、学生を忙しくさせて死のことを考えさせないようにするためなのかな。」
そうスマホに呟いて、シンボルタワーの最上階まで足を運んでいった。窓がはめ殺しになっていて、開かないことを知ると、わたしは崩れ落ちた。
「……なんで、はめ殺しなの」
わたしはまたしても自殺をすることができなかった。


三年生になると、いよいよ専攻が本格的に始まり、わたしは「景観デザイン三年生」だけが使える共用のアトリエを作業場としてもらえた。ホックと会うことはこのころから激減した。設計課題で忙しくなっていて、サークルにも行けなくなっていた。それはきっと、ホックも同じだったはずだ。

最終学年の四年生になると、設計以外のこともやらせてもらえるようになった。わたしはこのころから文学に興味を持ち始め、四年生最初の課題の制作で、物語を一つ書いて提出した。秋田県中央部の田舎町にある、寺を経営する祖父母に取材して制作した、『あきた照明寺ものがたり』という作品だ。教員は、「対話から見える都市像」が現れている、と、高評価をしてくれた。そのころホックが何をしているかは、全く何も知らなかった。

四年生の次の課題では、四万字を超える長編小説の制作に没頭した。読んだ人に自由に名前をつけてもらいたいから、『No title』という題にした。しかしわたしはこの作品の制作であまりにも自分を追い込んでしまった。不眠不食で何日も作業し続けたことがわたしには無茶だったようだ。結局、統合失調症という病気になって、入院することになってしまった。

わたしは、その入院をきっかけに、美大で何かを作るという意欲を喪失し、四年生まで上り詰めた美大を自主退学するという選択をとった。ホックは、きっと最後まで美大で頑張って、卒業、したんだろうな。ホックと会うことは本当に全くなくなってしまった。フェイスブックでの繋がりもかつてはあったけれど、ホックはいつの間にか自分のフェイスブックを閉じてしまっていた。

それでも、わたしが美大時代を大切な時間だったと思うのは、ホックという友達がいたからだ。
また二人で作品を作ったり、電車に乗って大学までの道で話したりしようね。

わたしの記憶のなかで。

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