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「おじさん構文」と「マルハラ」の憂鬱

SNSとトンマナ論

ブランドとか場の雰囲気をデザインするときは、トンマナ(トーン&マナー)を合わせることも重要とよく言われる。実はSNSでの文体がアレコレ言われるのも、きっとトンマナの文脈なんだろうと思っている。例えば「おじさん構文」とか……

文体:おじさん構文は、絵文字の多用、乱用される片仮名や句読点に特徴付けられる。絵文字の多用は、多くの場合相手と親しくしたいという下心も伴い、その場合読み手に対し相当な不快感を与える。
例文:〇〇チャン、オッハー❗😚今日のお弁当が美味しくて、一緒に〇〇チャンのことも、食べちゃいたいナ〜😍💕(笑)✋ナンチャッテ😃💗

おじさん構文 - Wikipedia

……マルハラとか……

「○○しておいて!」だと期待をかけられていると感じるけれど、「○○しておいて。」だと冷たく突き放されているように感じる――LINEなどのチャットツールの文面で、文末の句点には圧力があるとする「マルハラスメント」という言葉が若い世代の間で生まれている。

20年前を思い出すマルハラ議論 源氏物語にはなかった句読点の歴史:朝日新聞デジタル

……似たようなものは、SNS普及以降に折々のものが生み出されてきた。おじさん構文に対して「おばさん構文」なるものもあったし、「エアポートおじさん」というのもトンマナという視点ではここに並ぶと思う。

「おじさん構文」と「マルハラ」の憂鬱

憂鬱なのは、これが本当にそういうものなのか、誰かがそう煽ってメシのタネにしたいだけなのか、わからなくなるという点だ。前者ならSNSトンマナ論で僕たちはよりスムーズにつながれるけど、後者なら僕たちは分断される。

SNSはさかのぼっても2003年ぐらいまでの新しいコミュニケーション空間で、利用サービスとか利用開始時期とか世代とか居住地で緩やかに分かれているし、それが新しくできては消え、移り変わりが激しい。その緩やかなコミュニティごとに、なんとなく方言ができる。「おじさん構文」はその名が示す通り、SNS上の世代方言の一つだし、「マルハラ」が示すのは「。」の使い方が特異な若者文体、世代方言があることだ。この文体には「打ち言葉」という呼び方がある。

同じコミュニティ方言なのに、メディアはおじさん方言は世代方言だから使わない方がいいと言い、打ち言葉は使わないとマルハラになるから使った方がいいと言う。どうしてそうなるんだろうね。みんなで標準語を使う方がスムーズとか、みんなでそのコミュニティ特有の方言(ジャーゴンあるいはネットスラング)を使うと一体感が出るとか、各人各様の話し方や方言を許容できないのは不寛容だとか、どれも分かる。一貫性があるならそれは一つの意見で、意見が人それぞれなのは別にいい。でも一貫性がないのは、なんなのだろうな。

ひとつ一貫性があるとすれば、若者側(とメディアが想定している)視点を肯定し、「おじさん」を否定すると言うスタンスだ。でももしそれが一貫した姿勢なんだとしたら、それは僕たちを結び付けるより、若者とかおじさんとかいう区分けで僕たちを分断する方向に働きそうだ。

マナービジネスとFUD

その背景は、若者が正しいからか、そうしたメディアの購読層である「おじさん」に不安を掻き立てたいからか、どっちだろう? みんなハロウィーン文書が告発したかつてのMicrosoftの不品行のことは覚えているよね。あの不安・疑念・不審を掻き立てて行動させるFUD戦略を、購読層に対して仕掛けてるのではと。

トンマナの話だと最初に書いたけど、マナーというのはビジネス化に向く。感覚的なことで正解/不正解とか十分/不十分という線引きがなく、どうとでもアドバイスでき、不安を抱かせて行動を促せる。最近はリアル世界のマナーでも傘かしげなどの新マナーが出てきたけど、ITの世界でもおじぎ印やオンライン上座のような新しいIT仕草が生み出されている。気にしない人は一笑にふすけど、マナーの提唱と無作法への不安が局地的にはビジネスマターになり、実際のところ上座を実現するにはといった質問もにかけた。

ところで、上の一文を読んで「ハロウィーン文書知らないな、まずいかな」とリンク先を見たりしただろうか?もしそうしたなら、そうさせるのが僕の仕掛けたFUDだ。もし「おじさん構文まずいかな?」「マルハラまずいかな?」「だからもっと詳しく」と続きや続報を読ませることができたなら(そしてページビューやサブスクリプションを伸ばせたなら)メディアのFUD戦略成功。そういう構図を疑いたくなる。

打ち言葉の合理性と話し言葉性

話は変わって、以下の記事が数名の学生に「。」の使い方や感覚を聞いていて、興味深かった。


読んでいて伝わるのは、人それぞれだし、相手によって使い分けるし、ニュアンスではなく句点として意味のある「。」なら使うと言うことだ。

本人に確認したところ、文末には「。」をつけないようにしているとのことだ。ただし、「そう聞いてますが。」というふうに終わるとき、ここで終わっているというのを示すために「。」はつけていると言う。

読みやすさの工夫として改行調整するというなら、SNSより古い時代からメールは70文字で改行という前例があり、いまでも一定文字数で改行する人を見かける。これは元々はディスプレイの一行の表示文字数に配慮したものだった。一周回ってスマホの縦長(というより横狭)ディスプレイとLINEという環境では、一定文字数ではなく文末改行という工夫が生まれた。これが習慣化した文末=改行の世界では、文末記号は意味を失って省略された。

文末記号はデフォルト省略だけど必要なら使う。まずその程度の、自然で合理的な習慣だと考えられる。打ち言葉は話し言葉の性質を色濃く持つと指摘されているが、まさに話し言葉である無線交話法が同じことをしている。トランシーバー片手に、最後に「オーバー」とか「送れ」とか言ってるシーン、見たことないかな。話し言葉には「。」はなくて間が置かれる。改行と同じだ。間をおくだけだと話終わりが分かりにくいことがあるから、文末記号が必要なら「オーバー」などを付け加える。「。」と同じだ。若者やLINEに限らない。

改行の工夫や、文末の明示なら僕たちも昔からやっている。それは自然な工夫や心映えでいい話で、無線交話法のように「こうすべき」「ねばならぬ」にまでするほどクリティカルなコミュニケーションじゃない。古き廃れたネチケットの再発明みたいなことして、ドヤってる感は本当に鬱陶しい。

つながるコミュニケーションのために

無線交話を書き起こした交話文例を引用しようとして、ニヤニヤしてしまった。打ち言葉と文体に共通性があるのはもちろんだけど、見た瞬間に文末改行や空行を削除して縦にコンパクトにしたくなった僕の感覚まで同じだった。やり過ぎそうな僕は文書化された話し言葉アレルギーで、それを言うならマルハラは書き言葉アレルギー。どっちも過剰反応じゃないか?

B6 this is  B1.
「おやつはポテチのうす塩にしたい」 Over.

This is  B6 Your Voice weak.
Say Agein 「ポテチの種類」 Over.

This is  B1 I Say Agein「うす塩、うす塩」
Did You Copy? Over.

This is  B6 「うす塩」 Roger Out.

イベントにおける無線交話法

B6さん こちらB1です.
「おやつはポテチのうす塩にしたい」 どうぞ。

こちらB6です。小さくで聞こえづらい。
「ポテチの種類」をもう一度言って下さい。 どうぞ。

こちらB1です。 もう一度言います。
「うす塩、うす塩」
聞き取れましたか?どうぞ。

こちらB6です。「うす塩」了解しました。終わり。

イベントにおける無線交話法

コミュニケーションなんだから、まず意味が正確に伝わって、次に読みやすく、その上で感情も伝わればなお良い。優先順位はこの逆ではないし、どうやら若者はまずそういう「。」の使い分けをしている。そこをすっ飛ばして「圧が」「ハラスメント」とか言ってると、素で本末転倒なのかわざとなのか考えてしまう。

おじさん構文だのマルハラだのという、世代間に垣根を作るようなコミュニケーション論はノイズでしかないしノイジーだ。メディアがコミュニケーションを促進する気があるなら、打ち言葉は「こんなシュッとしてエモいコミュニケーションが生まれてるよクールだね!」みたいに、興味を掻き立ててくれればいい。不安を掻き立てるFUDじゃなくてね。僕たちは分断されたいんじゃない、つながりたいんだ。

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