根来寺越しに見る景色
仏教の成り立ちを調べていたら、見覚えのある名前と出会った。
覚鑁。
かくばん、と読む。ムズい。
何年か前に、和歌山県の根来寺で行われている覚鑁祭りを見に行った。
お琴の演奏や、若者のダンス。年に一度の町のお祭りと言った風情だったけど、その中で1つ、特に私にとってインパクトのあるイベントがあった。
僧兵による火縄銃の実践。
僧兵の姿を見るのも初めてなら、火縄銃を見るのも初めて、空砲を聞くのなんて尚更。
少し小高い場所から何人もの僧兵の姿を模した人達が、一斉に空を割るように銃を放つ。
ふと、雑賀衆を思い出した。
戦国時代に銃を扱える傭兵集団として、大名たちから引く手数多だった雑賀衆。根来寺からそう遠くない。根来寺の僧兵も火縄銃を扱えた。
なぜ、貿易港として栄えた堺から離れた和歌山県の根来あたりで、銃の文化が発達したのか。
1543年、種子島に鉄砲が伝来した。藩主の種子島時堯が2挺購入し、根来寺の杉坊某が所望したのでうち1挺を津田監物という人に託し、和歌山に持ち込み、地元の鍛治職人に複製させたと言われる。
今の和歌山の紀の川付近は黒潮の流れを利用して海運も行っており、収益も上げていたので、日本では手に入らない火薬には欠かせない硝石も貿易にて手に入れることが出来た。
鉄砲を自前で作成し実践するだけの技術と財力が、紀の川周辺の民にはあったということだ。
さて、覚鑁。
平安後期に活躍した僧で、真言密教と天台密教を学び、高野山に大伝法院を開創した。
密教と阿弥陀信仰との融合を図り、東寺から高野山を独立しようとするも失敗、根来に隠退、真言宗真義派の開祖となる。
卵が先か、ニワトリが先か、分からないけども。
新しいムーブメントを起こそうとするそのフレッシュな精神と闊達な独立心は、風土なのか、覚鑁の影響なのか。
平安時代から戦国時代までのギラギラした魂が、この根来寺の中にギュウっと凝縮され、内包したまま今では何も無かったように佇んでいる。
その対比を肌で感じた時に、つくづく、歴史好きでよかった、と思う。
歴史が好きだからこそ、知った名前が無尽に在り、思いもよらないところで目にした時の嬉しさが人よりも多いことも、つくづく幸せだなぁと思う。
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