写真と記録についての考察
先日 VISIONSというコミュニティの方と飲んでいて、街を歩きながら撮影をした時の話(自分は企画に不参加、後日の飲み会だった)をした。
その会話の中で気になった表現があったのでそれを膨らましていきたい。
「記録写真になってしまう。」
街中を歩きながらスナップ写真を撮るというテーマの企画についての話だったが、その言葉の中には「記録写真にならないように」という少しネガティブな意図が含まれるように感じた。その意図自体を完全に読み取ることは難しいので、ここではその方の考える「記録」についてではなく、自分なりの「記録」と「写真」について整理しておきたいと思った。
写真と記録
写真はそもそも「光(photo)」を「記録(graph)」するメディアである。そう言ってしまえば全ての写真は「記録」ということになってしまうので、ここではもう少し細かい「記録」の定義が必要だ。
ここでいう記録というのは「光」ではなく、「事実」を記録するという文脈だと仮定する。
この「事実」という言葉が結構厄介だ。「事実」を「記録」するというと、なにやら客観的な視点を求められるように感じる。客観性の話はとても難しい概念なので、「客観」とはなにかというところにはあまり触れないでおきたい。
写真は、ある一つの出来事を一つの時間/画角/色/フレームによって定着させるメディアである。これらを決定するには必ず撮影者の「意図」が介入する。とても制限が多く、もし、人間による意図を完全に排した客観性というものがあると仮定するのであれば、写真においてそれを達成するのは不可能である。
写真の面白いところは、必ずその場に撮影者がいなければならないことだ。撮影者がその場にいるということはすくなくてもその「記録」自体に、撮影者の影響を及ぼすことになる。これは、文化人類学や社会学等の質的な調査等で行われるフィールドワークにおいても同じようなことが意識される。特に、被写体と直接コミュニケーションを取る撮影は、「参与観察」に近しい行為だと感じている。
写真の中の「記録」というのはこの「自分」という存在をどのあたりまで介在させるかということが重要になってくる。わかりやすいものだと被写体からの距離がこの「参与」に与える影響が大きい。
写真は記録メディアか?
日記は実際にあった出来事のみならじ、感想も含めて書いた記録である。このように必ずしも「記録」は物理的事象をそのままの状態で記述することではない。もし写真を撮って心象を表現したとしても、それはある種の「記録」である。そう考えると写真はなんにせよ「記録」であるようにも思える。
ここまで、書いていて、では「写真」とは何か?という問題にぶち当たった。最近話題の生成AIの話題とかもあるし、過激な場合では撮影機材外での加工自体を否定する場合も見ることがある。cgでよく使われる「フォトリアル」という表現が、なぜ機械学習データによる生成画像についても同じことが言われないのか?というところも疑問だ。
さあ、この辺でいったん諦めておこう。「写真」について語り始めるとややこしくなる。
最後に
先ほど書いた内容と「記録写真になってしまう」という表現の間には矛盾がある。先ほど書いた考えに則れば、どうなっても「記録写真」になってしまうからだ。
この矛盾にも、きっと重要な何かが隠されているはずで、今後写真を撮るときにはそこにも注力していきたい。自分のまだ知らない「記録である」と「記録でない」の間にある境界が存在していそうである。