櫻坂三期生は"憂い"を表現することで、新しい段階に行った。三期生ライブ千秋楽を観たあとで

これはブルーズだ・・三期生ライブ千秋楽を見ているあいだ、櫻坂が新しい段階に進んでいく感じがあった。

しづや村山とあいり、ゆーづにえんりこたちが、ライブのあいだ憂いというしかない表情でいた。それは見たことがあるようでいて、過去に見たことがなかった。

欅坂時代から直近の櫻坂東京ドームですらもブルーズの雰囲気はなかった。気がついたらゆーづが「バラエティでも撮れ高を作れる大人」とかそういう段階ではなくなっていて驚いた。次の櫻坂にて、パフォも外仕事も含め、すべての活動の柱になるだろう、まぎれもない次のキャプテンに仕上がったと言ってまちがいない。

これまでのキャプテンを振り返ると、それは少しすれば崩壊しかねない雰囲気を持つ、危うい状態をギリギリのところで繋ぎ止めるような感じだった。でも今は違う。全員の関係もよくチームもまとまっている状態なのだ。

不安定な、気難しい子供な集まりを優秀で温和な性格でまとめようとしてた菅井さま、子供の自家中毒でぼろぼろで、まともな外仕事もむずいところを持ち前の明るさで引っ張った社会人のまつりちゃん。みんなグループのトップ(てちやるん)の表現する虚無感が強すぎるので、明るさ・温和さで中和させてた。

ところがいまのゆーづは、しづやあいりたちから醸される憂いをともに増幅させてる感じが、何か観たことなかった。

やっぱ後期欅坂のライブとかで、てちの暗すぎる上に体調悪そうなパフォを観た後で、菅井さまがめっちゃ明るく振る舞うのを観て口直ししてたとこあるよね・・?キャプがダークになるのはあまり観ないというか。

憂いはここまでの欅坂でも櫻坂でもまったく見たことのない雰囲気で衝撃だった。この憂いは、私が勝手に「櫻坂の根幹!」って思ってる「制服の人魚」や「Don't cut in line!」に見られる、ネオシティポップ系統の楽曲が核に持つ、ブラックミュージックの方向と重なってゆく。その音楽も根底に憂いを持つのだ。

それにより、「あの憂いはメンバーたちが楽曲を理解して、数多くのライブや練習を重ねた末の表現なんだ」と見えてくる。

そしてその憂いは、2期のいわゆる五皇のみんなでは表現していないものだった。

五皇は陰鬱さ(夏鈴ちゃん)やフラットな虚無(るん)、反動的に凶暴なパワー(天さま)に対して、明るくまっとうな人(ほのす)、落ち着いた大人(れなぁ)を観てバランスを取る感覚がある種、欅坂を引き継いでいると思う。

でも今回の3期ライブはそれがまったくない。全メンバーが自閉的な暗さと外向きの明るさを調和させている。そんなの、観たことなかった。

多段で無骨に組み上げられた舞台美術から、ライブに通底してる物語性もブルーズさに繋がっているのかもしれない。

あいりちゃんの「承認欲求」前の演出から村山のなんラブ前、それから最後のしづの「静寂の暴力」の演出も含めて、社会生活のほとんどが実質的にはどこかの部屋の中で完結しているみたいな行き詰まっている感じ。その状況に対して感覚がなくなっていくかのような。

私が「大人の不安定」というのはまちがっていて、紆余曲折あったグループがパフォの技術もメンタルも安定した末に生まれるのは、「大人の憂い」の表現だった。

技術も精神も安定した大人になって現実に適応したと思いきや、それは現実を素晴らしいものとして認めるのではなく、結局は空虚であることの憂いというか。三期ライブの演出全体の物語性ってそこな気がする。

だから哀しいトーンが明るい楽曲でも付与されてるところがモダンな気がする。そんな印象はこれまでになかった。うーん上手く味付けすぎずな言い方が見つかんないけど。

直近で小田倉さんやいとぴの腰の問題や、IWTCで加熱していくミーグリと選抜の話もあって、ほんとにシンプルな理由からの憂いかもしんない。

でも、気がつけば3期生みんなが一丸となってブルーズなトーンを表現した衝撃は大きい。1期にも2期にもあの感情はなかった。単純に「実質、全員がセンター」という状態がまずアイドルグループで存在しないから、それだけでも凄まじいのだが。

もしかしたら、2022年下半期くらいから運営側もクリエイティブも、楽曲や振り付け、ライブで目指しただろうイメージがここにきて完成したのかもしれない。櫻坂は新しい段階に入った。