いまの乃木坂の曲を聴くと「アイドルソングはファンの箱庭でいい」強さが持つ、逆の問題ばかり考えさせられる

私は実は乃木坂の新曲を聴くのが坂道でいちばんきつい。

櫻坂の失敗作(「愛し合いなさい」など)を聴くつらさや、日向坂が大事な時に伸びにくい表題曲を出してしまう難しさには苦くとも味わいがある。迷走があろうとそこにはもがきも含めた物語性を感じるからかもしれない。

じゃ乃木坂の新曲たちの物足りなさって物語性を感じないのもあるのか・・・・・?自分で自分の傾向をちょっと考えちゃったが、いま5期生というかなりのタレント揃いのわりに、まさに曲が彼女たちを生かした物語性を楽曲からぜんぜん感じないのが、新曲の物足りなさなのはそうだ。

すでにツイッタとかで識者から他ポップミュージックとの比較とかでなんだこれ的な批判あったけど、「チートデイ」や最新の「歩道橋」がすごいのはkpop文脈とかも無視した音楽というだけじゃなくてメンバーのパーソナリティが持つ物語性とか、もしかしたらグループの長い歴史が持つ物語性すらもないんじゃないか、と感じさせることかもである。

ここにはアイドルが持つ箱庭性によってファンダムを囲い込む強度だけがある。もともとアイドルものはポップミュージックシーンの文脈を箱庭の壁で部分的に遮断するものだった。

乃木坂は比較的、箱庭の範囲が他より広めで男性ファンだけでなく女性ファンを取り込める方向性で、アイドルがそれなりにファッションやライフスタイルのモデルにもなるくらいにはメジャーなものでもある。

でも、箱庭は箱庭。外部を見えないものにする。楽曲はそう伝える。楽曲のクオリティはすべて箱庭の壁の厚さを強めるためにある。

しかもその楽曲から見える箱庭は、まるで箱庭のなかにさらにもう一つ箱庭を作っているかのようだ。でなければメンバーやグループが持つ物語性という、箱庭内部で機能するだろうものさえ見えなくなるはずはないから。

乃木坂のいまのところの曲は、アイドルソングの中のアイドルソングだ。こういう形容はすごくいい曲だと書いている風に読めてしまうけどもちろんそんなわけない。

アイドルソングが性質として持つ、あらゆる外側に広がる文脈や世界を遮断した先——それがアイドル自身がもつ物語さえも——見えなくしたあとに何があるのか。

そうなるといよいよメンバーの記号的な消費が強まるとかなんか硬い、やな書き方しちゃいそうになる。

や、ミーグリとか記号で括れない、アイドルと関われるアプローチがあるんですけど・・とか自分であれこれ考えて、そういえばミーグリを免除されてるメンバーが乃木坂は何人かいるよね・・あれは「主要メンバーの負担を抑える」名目だけどそういう消費を拒否してるって話でもあるよね・・・とかつらつらと考えてしまう。

乃木坂は坂道の中でもっとも完成された箱庭。でもその中に広がる世界は清廉にして異様でもある。自覚のない、映画ミッドサマーみたいな。褒めてはいない。