日向坂46の卒業は「明るくい続けなくてはいけない」強迫観念から逃げるような苦みがある

苦いなにかがある。かとし、にぶちゃん、めいめい、ひよたんの卒業発表から、ここのところの卒業生たちを振り返って思うことだ。

特に身体の問題での挫折が止める理由になってる、にぶちゃんの腰の話はブログを読んでいて辛かった。

体力の理由(他にもあるかもだが)でやめた愛萌さんもきつかったが、表はすごく明るいにぶちゃんだからこそ、日向坂ならではの卒業にしばしば見られるの苦みが凝縮されてる。

日向坂には「明るくなくてはいけない」強迫観念がグループにつきまとっている。にぶちゃんが腰の悪さから、休業を挟みながらも無理をして明るく活動続けてくれたという背景は、まさしくその暗さを感じてしまう。

ドキュメンタリーの第2作のキボゼツは、べみほがグループを離れる背景のインタビューとか、かとしが満身創痍になる姿とか、「あんな明るいグループが裏でこんなぐちゃぐちゃだったのか」とおひさまを驚かせたと思う。

だけど、私が思うに日向坂はひらがなの時から、最初から暗い未熟な子供が無理やり明るくならざるを得ないグループだった。

トラウマに塗れた不安定な子供たる欅坂を姉に持ち、反面教師として明るくなくてはいけないオプセッションを抱える妹たるグループの日向坂。内向的なこさかなさんは、センターとして明るくい続けなくてはいけないことの悲痛さをパフォとして見せてくれたと思う。

最近の卒業生を見ると、大人として人生の次の目星がついたからやめますというのはわかるのだが、「明るくなり続けなくてはいけない」強迫観念から降りるかのようでもある。見え方として。

成熟と子供時代の終わりとしての卒業、という風に見えればベストエンディングなのだが、日向坂はまた独特。

印象的なアイドルグループはコンセプトと言うものを飛び越えた、何らかのオブセッションを持ってることが多い。櫻坂はトラウマを持つ子供の頃を清算し、大人へと成熟しようとするオブセッションという感じ。

卒業とは、見方によってはグループのオブセッションが導く物語性を凝縮させたもの、ともいえるのかもしれない。

日向坂の明るくい続けなくてはいけないことのほころびや悲しみは、楽曲やパフォの中にもどこかに埋め込まれていると思う。

でもそのオブセッションの完結となる卒業が、大人に成熟するというより、明るくあろうと努力する子供が、その先のなさに気づき役目から降りるかのように見える。私にとって日向坂は意外に暗い影を持つグループなのだ・・