長濱ねるが直面してる現代の問題

欅坂の卒業メンバーたちの活動のなかで、ねるちゃんが一番はらはらする。

実績だけ見れば、卒メン中でもっとも目立った活躍をしてるように見える。朝ドラを含む多くのドラマ出演や、エッセイの執筆などたくさんの活動もあって、文句なしの仕事をし続ける人だろう。

だけど、ねるちゃんがふといろんな番組のカメラに映されたとき、なんというか・・ちょっとやつれたような、疲れたような雰囲気が見えて、「大丈夫かな」と思っちゃう。

あおたんとTIFレポートで競演したときは、特にそう思った。あおたんがぴしっとしたアナウンサーらしい表情や声に満たされているのと対照的に、ねるちゃんの何か危うい感じは際立ってしまっていたというか。

そんな表情のなかに、卒業してからの大人が直面する悩みや不安定さについて思いをはせる。でも、ねるちゃんの場合は櫻坂のみぃちゃんの不安定とも違っていて、自意識の問題が直接の社会に直結してるだろうところに現代的な切実さがある。

たぶん、いまのねるちゃんが抱えている悩みみたいなあれこれって、テレビやステージの仕事だけで見えてこない。カメラが入らない仕事で、初めて見えるように思う。

悩みがいちばんわかるのが文章の仕事だ。エッセイ集「たゆたう」と、FRaUでの連載がねるちゃんのいま最も切実な問題について書いてある。


ねるちゃんの文章には、ドラマやイベントといった演者の仕事だけではまったくわからなかったことがたくさん書かれている。

特に社会的な課題がテーマとなりやすいFRaUの文章を読み進めていると、「ああ、いま自分の感覚が社会のあれこれとぶつかっている最中なんだ」と共感するものがある。それより、元人気アイドルで、ここまで「一応ノルマとして社会課題の話してます」じゃなくて、自分の問題と繋がったものとして書ける(ライターに喋りを書き起こしてもらってるかもだが)人は珍しい気すらする。

芸能人って、表の仕事のイメージと本人が直面してる問題にはすごく差がある。文章とかラジオみたいな、プライベートに近い言葉からじゃないとわかんないとこある。たとえばオードリーの若林さんの一時期なんてわかりやすいんじゃないかな。

その意味で、ねるちゃんは表のイメージとねるちゃん自身の実際の感覚とで、大きなハレーションを起こしてるのかもしれない。

ねるちゃん自身ががいつも考えていることや感じていることの実感と、表のお仕事として求められるイメージがたぶん繋がってないんだろうなと。

やっぱり私も欅坂で「音楽室で片想い」をゆるい振り付けで踊ってるような、めちゃかわなイメージが拭えてない。でも、(たぶん)代表的なふたつの文章の仕事からは、そんなかわいいイメージのころから表に見せるイメージと自意識のあいだで思い悩んでいたことがわかる。

山山さんがねるちゃんを模したAVにあれだけ怒ったのが話題になったけど、やっぱりねるちゃんの本音のところの考えを読んできた方なら当然だ。ちゃんとしっかり考えを汲んでくれる方がいるというのが大事なこととも思う。

「たゆたう」にはねるちゃんの「わりと無理して周囲の空気に合わせたり、要望に応じたりするが、その無理したことで自分の評価を決められたくない」みたいな気質がうかがえる。これはアイドルやってる方は大なり小なり持っているかもな悩みかも。

そんな「たゆたう」を踏まえてFRaUの連載を読むと、そんな自意識が世間的なイメージの押し付けられで苦しんだ感覚を、いまの社会に広がるさまざまな課題と繋げて考えられているのがすごい読み物になってる。そこには、いまの大人が普遍的な問題に直面する姿がある。

いまもねるちゃんのドラマやグラビアの仕事が出ると「かわいい」って言葉の反応がくる。でも本人としてはもうそれはいいだろ・・・と感じてる自分と、周囲の期待に応えなきゃとやってる自分とで引き裂かれていそうだ。少し疲れたいまの顔は、そんな積み重ねに見えたりする。

残りの20代からこれからの30代は、そういう表のイメージや自意識の課題を一致させていく過程なのかもしれない。これもまた櫻坂がこれからやるべきテーマっぽいとこあるし、他の俳優だとか芸人だとかが一段ちがうステージに進むときに必要な過程を目にしてるのかもだ。

その意味で、文章として考えが残されていることはとても大きい。

こうした文章の仕事も見て、ちゃんとねるちゃん個人の問題を物語性をもって描けるドラマや映画の企画に恵まれたらいいな・・と思うばかりである。(若林さんが「たりないふたり」という企画を持ってきてもらったような)。

いや、エッセイなどを見る限り、それも仕事が来るのを待つのではなく、自分でやらなくちゃという意志があるみたいで、それはそれで確かな大人という気がする。