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【短編小説】 『足下の上』②
本屋に住み始めて1ヶ月が経った。
本屋は商店街の中にあって、2階がおじいさんの家だった。
おじいさんに子どもはおらず、奥さんとは死に別れていた。
布団で寝て、何もしなくても3食が出てきて、そしてまた寝る。
そんな生活は、現実味がなかった。
ただ座っていることには慣れていた。
そのほかに何をすればいいかはわからなかった。
だから店に出ているおじいさんの横にずっといた。
服と髪が綺麗になって、街を歩いてみた。
もともと座っていたところに行くことにした。
人が僕を避けなかった。
”普通”にすれ違うことに違和感があった。
僕が座っていたところにいくと、別の男の子が座っていた。
その前には空間がある。
僕の時にもあったであろう空間。
僕もあんな顔をしていたんだろうか。
今もしているんだろうか。
そう思うと悲しくなった。
悲しくなって、その隣に行って、座った。
久しぶりに下から、歩く人たちを見た。
男の子は僕の方を見もしなかった。
興味もなさそうだ。
お金をいれてくれる人の目も、
通り過ぎていく人の目も、
冷たく、冷ややかな目だった。
誰も僕らを見ていない。
僕らと言えるのはその男の子だけに思えた。
帰り道、じんわり胸が温かくなった。
そうか、おじいさんの目って、なんて優しいんだろう。
あの漫画に出てきたジョーのおじさんの目は、その目だったんだ。
「あの、僕、文字が読めるようになりたいんだ」
本屋について、一言目がこれだった。
それまで何かを求めたことはなかった。
でもあの子の隣に座ってから、この気持ちが湧いてきたのだ。
今までは思いついたこともなかった。
そもそも今の状況を信じきれていなかった。
言ってから怖くなった。
これ以上、これ以上を望むのか。
おじいさんは、涙ぐんでた。
「いいよ」
そう言って背を向けて、店の裏に入っていって、
しばらくして戻ってきた。
一冊のノートと一冊の本と一本の鉛筆と消しゴムを持ってきた。
「ん」
おじいさんの優しい声を聞いて、心が軽くなっていくのを感じた。
その日から、文字を書き殴った。
本には全部のひらがなと、そのひらがなから始まる物の絵が描かれていた。
その絵がわからないときにおじいさんに聞いた。
5日でひらがなを全部覚えた。
ひらがな以上に知らないことがたくさんあることも知った。
そしてカタカナは3日で覚えた。
そしたら、ルビがふってあるあしたのジョーが読めるようになった。
あしたのジョーで漢字を覚えた。
そしてさまざまな感情も覚えた。
涙は流したことがなかったので、泣き顔を真似してみたけど何も出てこなかった。