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【短編小説】 『足下の上』①

親に捨てられて、物心ついた時から路上にいた。
物を乞い生きてきた。
それ以外に生き方を知らなかった。

手は汚れ、人には蔑まれた。

汚れたものに、人は近づかない。
近づこうとしないということが見下しているということだと、人は気づかない。
しかし見上げている側ははっきりと感じる。
その人たちは、向ける目が死んでいるか、嘲笑っているか、そもそも目を背けるかだ。

「恥ずかしい奴め」
そう吐き捨てて、酔っ払ったサラリーマンが去っていった。
恥ずかしいと感じたことはなかった。
そいつの言う”恥ずかしくない生き方”を知らないから。
他の人に対して恥ずかしいと思ったこともない。
見下げられる人に会ったことがないから。

「怒れよ」
と、嘲笑う者たちは言った。
しかし何を言われても怒りにはならなかった。
どんなに侮辱されても、見下されても、そうじゃない自分を知らないから。
他の、”普通”の人たちの人生を想像することが全くできないから、憧れを抱くこともなかった。

ただ生きる。それだけのために毎日があった。
見下す人たち、嘲笑う人たち、その人たちが日々の糧を与えてくれるのだ。
そこにどんな感情を持てばいいだろう。

あの頃の僕は、何も知らなかった。
そこには期待も、心配もなかった。

僕に”生き方”を教えてくれたおじさんは、優しい人ではなかった。
あくまで対等に、ただ生き方を教えてくれた。
互いを利用する関係だったと思う。
僕も”授業料”をたくさん払った。
一人で生きられるようになったら”自立”した。

一人で生きた。
一人で生きてきた。
一人で生き抜いてきた。

いつものところに座って、みんなのことを見上げていた。
40年前、10歳のときのことだ。


その頃の僕は字が読めなかった。
学校に行くという発想すらなかった。
そんなこと誰も教えてくれなかった。
僕がいた街自体が、普通から外れていたところだったのだろう。

一冊の本が落ちていた。

表紙の絵が鮮やかで綺麗だったので手に取ってパラパラとめくった。
そんなことは初めてだった。

その本は絵と少しの文字だけで進んでいった。
それが”漫画”というものだと言うことは、後から知った。

初めからずっと四角の中心にいる男は、僕と同じような街にいた。
そして同じような生活をしていた。

しかしその男は楽しそうに歩き、人々とは距離が近かった。
大胆に近づくし、人々の方から近づいていた。
何よりページをめくるたびに表情が違う。
よく怒っている。よく笑っている。よく困っている。

何より怒っている姿が新鮮だった。
怒っている時に人が集まってくる。
その姿に初めて嫉妬をした。
あの時はわからなかったけど、確かにあれは嫉妬だったと思う。

その男がおじさんと出会う。
おじさんの前で笑い、怒り、殴りかかる。
そして殴られる。
それでも二人は離れない。
男の周りから人が離れていかないのだ。
そして男は人を突き放しさえする。

そしてその男のために、その男に抱きついて、おじさんが泣いた。
どういうことか理解できなかった。
理解はできなかったが、羨ましくはあった。

気づいたら夜になっていた。
読めなくなって目を上げたら暗くなっていたのだ。
それほどに夢中になっていた。

その日の収穫はいつもの半分もなかった。

その夜、怒りが湧いてきて眠れなかった。
初めての感情に、どう取り扱えばいいかわからなかった。
あの男みたいに、誰かを殴ればいいのだろうか。

次の日、路上にいると酔っ払いのオッサンが朝から絡んできた。
嘲笑い、僕を怒らせようとした。
僕は怒ってしまった。
気がついたらオッサンに殴りかかっていて、ひょいとよけられ、反対に殴られ、そこに倒れていた。

口の中で血の味がした。
コンクリートはゴツゴツしていて、肌に刺さって痛かった。
女の人がクスクスと笑う声が聞こえた。

初めて、恥ずかしいと感じた。

もう一度、あの本を読んだ。
怒りが湧いてきた。
居ても立っても居られなくなってきた。
でもどうしたらいいかわからなかった。
どうしてこの男のように生きられないのか、どうして自分はここにいるのか、困ってしまって、悔しくて、涙が出てきた。

この本は続きがあるようだった。
それは男とおじさんが離れ離れになって、涙で終わっていたからそう思ったのだ。

見たい。
どうしても見たい。
この男の結末が見たい。

これも初めてのことだが、
目の前を通っている人に話しかけ始めた。

「この続きはどこで見られるの?」
「この本はどこで作ってるの?」
「この本はどこにあるの?」

たくさん話しかけたが、誰も立ち止まってはくれなかった。
お金を投げてくれた人も、こっちから近づこうとすると離れていってしまう。
”恥ずかしい”ということがこういうことなのだと、この時初めて知ったのだ。

そこに一人の少年が来た。
僕よりずいぶん小さくて、僕と同じぐらい汚かった。
こっちを見ていた。

「えっと、しゃべれるのか?」
ダメ元で近づいた。
「うん!しゃべれるよ!」
少年は笑顔で答えた。
答えてくれたことが嬉しくて、離れられなかったことが嬉しくて、グッと腕を掴んだ。
「そ、そうか、、、!」
「う、うん、、、」
少し困っていたけどそれでも笑顔だった。
「あ、あの、この本、どこにあるんだ?」
「あ!あしたのジョーだ!」
「え、これ、知ってるの?」
「うんー!僕、字、読めるよー!」
「そ、そうなの?」
「うん!これはね、本屋さんにあるよ」

そう言って、僕の手を引いてくれた。

周りの人たちが心配そうに見ている。
少年は気にしていないが、僕は気になっていた。
この子が”恥ずかしい”と思われたらどうしようか。
この子も一緒に笑われるのではないか。

商店街の本屋に連れてきてくれた。
「ハァ、ハァ、ここだよ!」
ウィーン。
ドアが開く。
店主が怪訝そうな顔をする。
少年の方を見て顔をしかめる。

「お、よう、た、タカ坊じゃないか」
明らかに動揺している。
「この人がね!あしたのジョーが見たいんだって!
 おにいちゃん、よかったね!じゃあ僕いくね!バイバーイ!」
そう言って走っていってしまった。

困っている店主と二人。
沈黙が流れる。

「えーっと、オホン、君は、だ、大丈夫かね」
また、この目だ。
見下げる目、怪しむ目、遠ざかろうとする目だ。
「あの、この本が、、、」
「ホウ!君もこの漫画が好きかね!」
店主の目から力が抜けたのがわかった。
「えっと、、、この本を拾って、それで、この本の続きが読みたくって、、、」
「あー、なるほど!それでね!
 お金はあるのかい?」
「あるよ!ほら、いつも少しは取っておくんだ」
そう言ってポケットから50円玉を出した。
「ム?き、君は、、、失礼だが、お父さんとお母さんは何を?」
そう言ってまた、目に力が入った。

僕はおじさんというよりおじいさんな店主に、自分の生活を説明した。
説明が終わった時、おじいさんは泣いていた。
そして怒ってくれた。
僕はおじいさんの真似をして怒ってみたりした。
でも楽しくって、嬉しくって笑ってしまった。

「風呂に入って行きなさい」
おじいさんが言った。

初めて入るお風呂は、熱くって入れなかった。
一度、何もせずに出ていくと、おじいさんが体と頭の洗い方を教えてくれて、お風呂をぬるくしてくれた。
頭を洗うのは嫌だった。
体を洗うのは気持ちがよかった。

お風呂から出るとご飯を食べていけと言った。
初めてお腹いっぱい食べた。
それでお腹を壊した。

おじいさんと一緒に寝た。

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