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【短編】続・Cathyの手紙

※これは続きです(前編はこちら)

『三年次終了後の夏期休暇中の手紙』

施設の皆様、
長らくそちらに帰ることができず、また手紙を出すことができておらず、申し訳ありません。
研究に勤しんでおり、教授と共に各地に研究旅行に行っているのです。
私は今、インドにおります。

ご存知だとは思いますが、インドには私のような狼に育てられた子どもの例がいくつもあるのです。
それが今回、インドに来た理由です。

その子どもたちの中で、私のように学力をつけ、社会に復帰した例はほぼないようです。
どうやら彼らに比べて私の能力は高かったようです。
私は学習が難しいとは一度も感じたことがありませんでした。
育て教えてくださった皆様には、心から感謝しています。

社会に復帰した何人かも、私と同じように人間社会に馴染むことに苦労していたというのは、私にとって朗報でした。
そこに関しては共通点があるようです。
ただ、彼らは精神的な成熟が十分ではなかったため、と判断されているようです。
しかし私は、本当はコミュニケーションに難があったのではないか、それに対する憤りや反発が、幼稚だと捉えられたのではないかと疑っています。

私にとって狼たちは、コミュニケーションという点において、レベルが低いとは思っていません。
複雑さにおいては人間社会には到底及びません。そのシンプルさゆえに見下されても仕方がないことだとは思います。
しかし、シンプルゆえに深いのです。
その共有具合が半端じゃないのです。

このようなことを教授に伝えると、教授は非常に面白がってくれました。
私を大学院に推薦し、奨学金も手配するとまで言っていただけました。
狼少女であるという特異性ではなく、狼少女であった私が考え発した言葉、またその哲学に興味を向けてくれる彼女と出会えたこともまた、皆様と出会えたことと同じぐらいの奇跡であると、つくづく思うのです。

ある時、教授がネイティブアメリカンの人への取材に同行させてくださいました。
実はネイティブアメリカンは昔、狼を観察し、その生き方を学んだというのです。
そこにルールはなく、決まりきった形もなく、ボーダーもない。生きるという目的に向かってその時に最適な形になっていく。信頼関係があり、当然のように助け合う。
それはまさに私と私の家族がしてきた生き方を、言葉にしたものでした。
私の目にそれらの言葉がキラキラと光り輝いていたのを覚えています。
彼らは直感を研ぎ澄ますことを重んじていました。
それはまさに、私が森で培ったものでした。

インドの文明が発達していない村の人たちにも似たようなものを感じました。
それは自然を信頼し、自然に身を任せ、自然から学ぼうとする生き方でした。
インドの哲学にも理由があるのかもしれません。
命が巡るものという考え方は、狼の世界に近いと思います。

そして確実に、その二つの場所で体験したコミュニケーションは、私が求めていた答えに近いものと感じました。
一つの場所(インド)では言葉がわからないにもかかわらずです。
それは狼同士の間で完成されていたもので、私には踏み入ることができなかった領域であり、私が同種族である人間同士で行いたいと切望していたものです。

今ようやく、人間社会に戻ってこれたことに感謝しているように思います。
もちろん、皆様への感謝と、出会えた喜びはあるのです。あるのですが、この人間文化の中に来てしまったことへの後悔と、不安が常にあったように思うのです。
『人は父と母と離れ一体となる』
という聖書の言葉は、皆さんから教えていただきました。
私は今、父と母を離れ、この社会に溶け込み、一体となったことを感じています。

私はこの社会の中で生きていきます。
人が少しでも野生を取り戻せるように。
しかし知性を豊かに発揮することができるように。
また感性を磨くことができるように。
私にできることをしたいと思います。
少なくとも今は、これらの出会いに導かれ、素晴らしい機会に恵まれていることに、神の導きを感じているのです。
それはまさに「生きる」ということに真っ直ぐに向かうことだと思うのです。

この夏は帰ることができませんが、必ずまた帰ります。
それまで私の家族をよろしくお願いします。
また会えた時に、彼らが私を迎えてくれるということに少しの疑いもありません。
その時が待ち遠しくて仕方ありません。
しかし今は、こちらで私にできることをしています。

心から、愛しています。

1992/7/16 Cathy Elizabeth


<終わり>

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