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黒澤映画『生きる』に見るキリスト

「生きる」を見た。
めちゃくちゃ良かった。
感動した。
やる気が湧いた。
嬉しかった。

一枚の絵を思い出した。

Fritz Eichenberg作『炊き出しの列にならぶイエス』

そしてわかった。
これは、、、黒澤明が描く『キリスト像』だ!!!

まだ見ていない方は、めちゃくちゃおすすめなのでぜひ見てほしい!
めちゃくちゃいいよ!!
どうやって見たら良いかはわからないけど、、、
僕は妻の実家に録画があったから見れたので。
とにかくおすすめ!!

と、言うことでここからはなにがキリスト像なのかを、
あらすじと共に書いていく。たぶんネタバレじゃない。あと、ネタバレが困る映画じゃない。でもそこらへんよろしく。

友達とやってるラジオでも、そこら辺を語っているので、よろしければ。
Youtube:https://www.youtube.com/watch?v=OptxYoTIkVQ

Podcast:https://spotifyanchor-web.app.link/e/E2tAIvUg0Lb



・主人公は公務員。勤続30年。

主人公、渡辺は無気力公務員の渡辺である。
30年間、死んだように生きていた。
そして当時の役所仕事はひどいものとして描かれており、市民からの要望に対して、課をたらいまわしにすることでうやむやにしていた。
ただただ業務をこなすだけで、またそれが求められる職場なのだ。
そこで渡辺は課長である。

30年。聖書を知る方はこの数字にピンと来るでしょう。
ここから渡辺の公生涯が始まるのである。

・胃がんが宣告される。

病院に行く。検査をする。
その結果を聞くのを待っている時に変なおじさんに話しかけられる。
「胃潰瘍だ、と言われたら、それは胃がんだ」というのである。
めちゃくちゃ怪しいこのおじさんが、実は真実に導く天使なのである。
そして実際に医者に「胃潰瘍」と言われてショックを受ける。
そして本当に胃がんであり、あと半年から一年の命なのである。

ここから、自分の死期を知る彼の歩みが始まる。
それはまさに、イエスキリストの公生涯である。
それを知った上で苦悩しつつ、悲しみつつ、その十字架の死へと歩みを進めるのである。
またおじさんから急に「祝福と預言(これからの道を示す)」をされるというエピソードも聖書(ルカ2:25〜のシメオン)にあるのである。
そして渡辺さんが病院から出た時に、急に街の音が騒がしくなると言う黒澤監督の演出に私は感動したのだが(主人公の悲しさを逆に騒がしくすることで表現したと感じた)、それもこれから街の中に入っていくイエスの悲しさと重なるのである。
イエスは決して幸福な道のりを歩むわけではない。王として、誰よりも人のために苦しむ道をいくのである。

・小説家と出会い、遊女のところに行く

やけになった渡辺さんは居酒屋で飲めない酒を飲んでいる。
胃がんの状態では自殺行為らしい。
そこで小説家と出会い、遊びを教えてほしいと言う。
小説家は「面白い。任せろ」と言う。
また、「不幸は、人間に真理を教える」と言う。
「あなたは、これまでは人生の下男だった。
 しかし今やその主人になろうとしている!」とも。
そして「貪欲は美徳」と言う。
最後に「今夜あなたのために喜んでメフィストフェレスの役を務めます」
と言って店を出る。
そして繁華街に繰り出し、遊女のところに行き、派手に遊ぶ。
その間、渡辺さんは少し笑うだけに見える。

ここで黒澤監督は、キリストの荒野での試練を描いているのではないだろうか。
イエスは、40日の断食の祈りの末、荒野で悪魔の誘惑に合うのである。
渡辺さんもろくに食べられていない。
そしてその誘惑は貪欲への誘いである。
聖書には「貪欲は偶像礼拝だ」という一節がある(コロサイ3:5)
そして悪魔が世界のすべてをイエスに見せたように、小説家も渡辺さんを街の裏側に連れていき、全てを見せる。
パチンコ屋に連れていき、スリルを与える(聖書で悪魔は高いところから飛び降りてみよと言う)。
そして貪欲と言う偶像を拝ませようとするのである。

その遊びを一通り終えて、遊女と小説家と共に車に乗る。
そして苦しくなって、車を止めてもらい、自宅に帰っていく。
それを見て不思議に思う遊女たち。
その時に小説家は言う。
「あの人はすごい人だ。胃がんという十字架を背負ったキリストだ」

誘惑に浸ることなく、その場を離れていく。
聖書では悪魔の方が離れていくのだが、ここで小説家が認めたように、
聖書でこの試練の後に出てくる悪魔の手下の悪霊どもは、「この人こそ神の子キリストだ!」と告白して負けていくのである。

また、イエスは遊女のところに行った。
貧しい人、虐げられている人、見下されている人のところに行ったのである。
この後にも書くが、この後、渡辺さんが共に時間を過ごす元同僚の女の子は貧しい者である。
そこに行き、共に飲み食いし、時間を過ごす。
そこにあの炊き出しに並ぶイエスの絵と重なる部分があり、まさに恥をうけている者たちのところに行って、共に泣き共に笑うイエスの姿と重なるのである。
讃美歌『まぶねのなかに』の好きな一節を載せておく

貧しき憂れい 生くる悩み
つぶさになめし この人を見よ
食する暇も うち忘れて
虐(しい)たげられし 人を訪たずね
友なき者の 友となりて
心砕きし この人を見よ

この最中、渡辺さんは見知らぬ遊女に、昔から使っていた帽子を奪われる。
小説家に説得されて諦めて、小説家の選んだ、新しい「真っ白な帽子」を買う。
私は個人的に、イエスの洗礼の時に降った、真っ白な鳩の形をした聖霊をあらわしているのではないかと思っている。
この帽子は次の者へと受け継がれるのだ。
聖霊もまた、イエスから弟子たちへと受け継がれるのだ。

・元同僚の若い女の子との再会

小説家と別れて(この後、まったく出てこない)、
その後、もともと役所で働いていた時にいた若い女の子に会う。
彼女は役所の仕事に辟易しており、退職するから退職届にハンを押してほしいという。
このことで渡辺は一人息子に誤解されてしまう。
実は渡辺は若い頃に妻を亡くし、それ以来、その息子を一人で育ててきたのである。
渡辺の人生はその子に捧げていたということがわかる。
その女の子の家は貧しく、靴下も買えないことを知った渡辺は、靴下を買ってやる。そこからデートのようなものを繰り返すようになる。

その子も、最初は楽しんでいたものの、だんだん気味が悪くなって、もう誘うのをやめてほしいといい始める。
困った渡辺さんは、一緒にいたいと思う理由を絞り出す。
こんな会話だ。

「つまり君は、どうしてそんなに活気があるのか・・・ 全くその、活気がある。それがこの・・・わしには、このミイラにはうらやましい。わしは死ぬまでその・・・一日でもよい。そんなふうに生きて、その、生きて死にたい。
そ、それでなければ、と、とても死ねない。
つまり、このわしは、何か、何かすることが、いや、何かしたい! 
ところが、ところが、それが分からない。 ただ、君はそれを知っている。
いや、知らんかもしれんが、現に君は・・・」
「だってあたし、ただ働いて食べて」
「そ、それから?」
「それだけよ! ほんとよ! あたし、ただこんなもん作ってるだけよ。 
 こんなもんでも作ってると楽しいわよ。
 あたし、これ作り出してから、日本中の赤ん坊と仲良しになったような気がするの。
ねえ、課長さんも何か作ってみたら?」

そこから何かを掴み、喫茶店を飛び出る渡辺さんの後ろで、
同じ喫茶店内で行われている学生の、誕生日パーティの歌が響く。
「Happy Birthday to you~♪」

貧しき者のところに行く、という点は前述の通りだ。
ここではまさに、聖書にある「生きる」と「死ぬ」が描かれる。
聖書において「生きる」とは、神とこの世界からの愛を知り、人生の目的を知り、生き生きと生きることを指す。
そして「死ぬ」とは、神と世界を恐れ、虚しさの中で、死んだように生きることを指す。
渡辺さんはこの場面でまさに、新しく生まれ変わったのだ。
キリスト教の洗礼の指すところはこれである。
今までの自分に死に、新しく生きるのだ。
素晴らしい世界を「創る」一員として、生き生きと。

・葬式(ネタバレかも?)

場面は一転して、渡辺さんの葬式の場面になる。
そこで次々に渡辺さんの、あの生まれ変わった後の話が明らかになっていく。
渡辺さんは、前から何度も来ていた婦人たちの願いである公園の建設に尽力し、そして遂には公園が出来上がっていたのである。
それは世間的にもすごいこととされ、マスコミも渡辺さんの力じゃないかと騒いでいた。
しかし表に出ているのは渡辺さんではなかった。

お偉いさんも葬式に来ていて、自分の手柄であると言いたがる男とそれに媚びへつらう周りの男たち。
しかし、そこに、あの貧しい婦人たちが入ってきて、遺影の前で泣くことで、その男たちは黙る。
有無を言わさず、誰の手柄かが明らかになるのである。

ここにもイエスの姿を見る。
イエスが十字架の死の後、墓に葬られるが、その前で泣く婦人たちの姿が聖書にも描かれるのである。
そして悪い噂を流そうとする者たちがいる一方で、その婦人たちの泣く姿が雄弁に語るのである。

途中、ヤクザに脅されるシーンがある。
「おまえ、殺されてぇのか」という脅しに、
少し笑ったように見える渡辺さんに、鳥肌がたった。
その後、部下に言われる。
「こんなにも踏み付けにされて、平気なんですか」
それに対して、
「いや、わしは人を憎んでなんかいられない。わしには、そんな暇はない」
と言う。

公園をよろけながら歩く。
ブルドーザーやトラックの土煙が舞い、咳をしながらヨタヨタと歩く。
こける。
婦人たちが駆け寄る。

聖書にもこんなシーンがある。
神の国を語るイエスの周りを取り囲み、殺そうとする。
崖まで追い詰める。
しかし、その真ん中を通り、イエスは去っていく。

結局、渡辺さんは公園で死ぬ。
ブランコに乗りながら、楽しそうに、歌を歌いながら。
「いのち短し恋せよオトメ」を。
そしてその公園には、夕飯に呼びにきた母たちを待たせるほどに、楽しそうに遊ぶ子どもたちが溢れる。

「我が神、我が神。何故、私を捨てられるのですか。」
これがイエスの十字架上での最後の言葉である(マタイ2:46)
これは実は聖書の中の歌集である、詩篇の一節である(詩篇22:1)
つまりここで、イエスは歌っているのかもしれない。
そしてイエスのメッセージは「神と人を愛せ」であった。
パウロは教会(人々)をキリストの花嫁と表現した。

また、イエスはある時、子どもを一団の真ん中に立たせて、
神の国はこのような者たちのものだ、と言った。
楽しむ子どもに溢れる公園は神の国を表しているのかもしれない。


<まとめ>
と、まぁここまで長々と書いてきたわけですが、
本当におすすめなんです。
つまりは見てほしいと言うことです。
そしてこの感動を共有したいと言うことです。

僕が聖書で一番好きなシーンは、
ボコボコに殴られて、裸にされて、惨めな姿にされて、罵られて、
そんなことをしている人たちのために、イエスが祈るシーンです。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)

僕には、
「いや、わしは人を憎んでなんかいられない。わしには、そんな暇はない」
このセリフと重なるんです。

僕はこんな恥をかける人間になりたい。


[2024/08/31 追記]
去年イギリス映画としてリメイクされた「生きる-living-」を観た。
そして気づいたことをここに記したい。

黒澤版もイギリス版も、最後は同じ。
亡くなった主人公の生き様に感化された人たちだったが、その後の役所での仕事のシーンで、前と同じように書類をたらい回しにしている。
一番、主人公の意思を受け継いだ若者が、「課長!」と立ち上がるも、周りの無言の圧力に負けて再び席にすわるのである。
そして、主人公が命懸けで作った公園を、主人公と同じような帽子を被って見に行くのだ。
子どもたちで溢れかえっているその公園を。

この情けない姿に、マルコの福音書の弟子たちを見た。
マルコの福音書の最後は、実はカッコで囲まれており、その部分は本当はなかったんじゃないかと言われている。
それはどっちかわからないが、それがなければ弟子たちは最後まで情けないまま終わるのだ。
十字架にかけられることになったイエスの元から、ビビって散っていった弟子たち。
預言された三日後に、イエスの墓を見に行ったのは彼らではなく、婦人たちだった。

しかし、そのあと、ペンテコステの日と呼ばれる時に、
心の炎が燃やされるのだ。
人々の目にビビっていたペテロが、五千人の前で堂々と
「あなたたちがキリストを殺したのだ」
と、大説教をぶちかますのだ。

その余白を残しつつ、
黒澤明がこのラストシーンを作り上げたのであれば、
本当にすごい。
本当にすごいと思う。

黒澤明、クリスチャンちゃうか、、、

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