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【短編】狼少女とアイドル-後編
最後の夜、森に行った。
キャシーが手を引いてくれた。
二人で、深い闇の中に。
狼の群れの中に行く。
そして一夜を明かすのだ。
私たちはすぐに仲良くなった。
キャシーがずいぶんと”大人”だったのだ。
丁寧なコミュニケーションをしてくれた。
私のことを聞き、自分のことを話してくれた。
私に敵意がないことを確認し、自分に敵意がないことを伝えてくれた。
私を年上として甘えてくれ、私の知りたいことを教えてくれた。
落ち着いた、深い、丁寧なコミュニケーションが、言葉は拙いのに、すごく大人に感じた。
何より目から放たれるものが強かった。
言葉以上に雄弁に語るのだ。
言葉が美しかった。
短い言葉でも、それが心からまっすぐに出てきているのがわかる。
もちろん英語。でも、簡単な単語で話してくれるので、通訳を通さずとも意味がわかった。
わからないことは調べた。調べ終わるまで待ってくれた。
私のスマホには何の興味もないようだった。
ここまでの生活と彼女の考え方は、聞けば聞くほど面白かった。
私が持っている不安や恐れが、彼女にはないのだ。
今以外のことを気にも止めていない。
人からどう見られるとか、どう評価されているかを考えたこともないようだ、、、。
私は世の中に対して怒りがあった。
むしろそれが私のエネルギーだ、ということに気づいた。
それがあるからここまでこれたのだとも。
彼女の中に、それはない。
世界を愛し、世界に愛されていることを疑っていない。
でもエネルギーに溢れている。
スマホには興味を示さなかったが、私自身には強い興味を示してくれた。
色々なことを聞いてきた。
何を感じ、何を考えているのか。
どのようにコミュニケーションを取るのか。
カミールさんが教えることも食い入るように見て、質問をし、深く考えていて、本当に頭がいいとはこういうことかと思った。
しかし、生肉を食べているのを見て、やはり狼少女なんだと感じた。
一週間は飛ぶようにすぎた。
ついに帰る前日になってしまった。
こんなにも別れが辛くなるとは、、、。
キャシーが言った。
「森で一緒に泊まらない?」
私はピタッと止まってしまった。
「も、森に?」
「うん」
いつもの素晴らしい笑顔を見せるキャシー。
「狼のいる森に、私が?」
「大丈夫だよ。
わたしがいるもん。
言ったでしょ。狼たちはすっごく賢いの。
そして仲間思いなの。わたしの友達には、きっと良くしてくれるわ」
、、、きっと?
しばらく悩んだ。
どんなに間を開けてもキャシーは変わらずこっちを見ている。
この間が圧力の正体だということにも、ここに来てから気づいたのだった。
彼女はそれを感じない。だから私も気にしないでいられる。
「い、行こっか、、、」
彼女の目に吸い込まれるように、その言葉が出た。
健康に生え揃った歯をニーッと見せて、キャシーが笑った。
カミールさんたちは止めなかった。
大丈夫だという。
それでいくらか安心したが、どこまで行っても心の汗は止まらなかった。
夜、
外は真っ暗だ。
月明かりは、森の木々の下までは届かない。
「じゃあ、行こう?」
まるで近所のコンビニに行くみたいに、キャシーは言った。
「うん。行こう。行きたい」
心からそう答えた。
キャシーと共に過ごしたこの一週間、自分が幼くなっていくような感覚を覚えた。
心と言葉がどんどん近くなるような、そんな感覚。
自分が今、行きたいと思っていることが、何の疑いもなくわかる。
それがとても心地のいいことだと、そうなってから気づいた。
キャシーが手を引いてくれた。
それだけが頼りだ。
肌に冷たい風が当たる。
手の温もりが際立ってくる。
後ろを振り返ると施設の明かりが小さく見える。
心臓がドクンドクンと激しくなっているのがわかる。
緊張しているのだ。
怖い。
しかしそれは、恐怖とは違う。
神聖な領域に入っていくような、そんな怖さだ。
フー、、、
狼の息を吐く音がした。
先の方に目をやると、小さく光っているいくつもの目があった。
「わたしだよ。友達を連れてきたよ。
今夜はよろしくね」
はっきりとした声で、キャシーが言った。
光っていた目が、スーッと閉じていった。
最後まで開いていた目のところへ、キャシーは私を導いた。
そして大きな狼の首に抱きついたのだ。
「ママよ。ここで寝ましょう!」
そう言ってその狼の腹にもたれかかって寝転んだ。
その狼はまっすぐに私を見ている。
優しい目をしている。
静かな呼吸の音がする。
「よ、よろしくお願いします、、、」
私は頭を下げた。
その頭に頬擦りしてくれた。
そして自分の腹の方に私を動かした。
狼の腹の上で眠った。
木々の間に見える星が綺麗だった。
驚くほど静かだった。
朝、
明るい日差しに目が覚めて、まわりを見ると20頭ほどの狼がいた。
柔らかい光の中で、優しい雰囲気に包まれていた。
何も怖くなかった。
狼たちと一緒に川に水を飲みに行き、そして施設に帰った。
キャシーは嬉しそうに私にハグをした。
空港に着いた。
私はまだぼーっとしていた。
夢の中にいるようだった。
お別れの時、キャシーは泣いてくれた。
私を強く抱きしめ、あの狼のお母さんと同じく頬擦りをした。
私も泣いてしまった。
絶対にまた来ると約束して、手紙を渡して車に乗った。
車の中で狼の遠吠えを聞いたような気がした。
なんだったんだろう。
この一週間は。
私は何を学んだんだろう。
映画のことなど、すっかり忘れていた。
飛行機が来た。
案内されるがままに乗り込む。
ずっと自分だけの世界の中にいるみたいだ。
騒がしいのに、ずっと静かだ。
飛行機が飛び立った。
コトリ、と音がして振り返ると、
遠くの方でお婆さんが鍵を落としたようで、それを拾っていた。
それで私は、前を向いた。