偽善者=隠すもの、について(詩篇26から)
偽善者=隠すもの
聖書の中の詩篇の中の26篇に偽善者という言葉が出てくる
それは原語であるヘブル語で隠すものとも訳せるらしい。
これは深い。
と思って思考を進めてみる。
聖書の初め、創世記でアダムとエバが禁断の知識の木の実を食べた時、
それを食べたら死ぬ、と神は言った。
これも言語では「死ぬ、死ぬ」みたいな感じらしい。日本語では必ず死ぬと書いている。
しかし食べた後、実際には死なず、人は自分の体を神から、そして異性から隠すようになった。
つまり、隠すものとなったのだ。
ここから、偽善というものが根本的な罪だと感じる。
これは死を意味する。
何を隠すのか。
自分のことを隠すのだ。
どうして隠すのか。
本当の自分を知られたくないから。
もしくは知りたくないからか。
僕にはトラウマがあった。
無意識のうちに触れられたくないボックスにしまっていた過去があった。
それに触れられそうになったら場を支配して、コントロールして、違う流れを作った。それができた。
しかし支配は、時に人を傷つけてしまう。
僕はその時初めて、自分のトラウマと恐れと支配しようとしてしまう罪に気がついた。
トラウマは恐れになり、
恐れを隠そうとして支配が生まれ、
支配は暴力を生む。
相手の人格を殺す。
隠すことには、この役割があった。
自分の弱さ、傷、それが生む恐れを隠すこと。
それが偽善か。
僕はまさに、偽善者だった。
クリスチャンきどりだった18歳。
神様、あなたのために何かしてあげますよ。
僕は十分優れているから、あなたの助けも癒しも必要ありません。
強いていうなら近眼ぐらいですかね。
そんなふうに思っていた。
でも、ルカ22:31-32で心を刺された。
そして神が自分のために祈っている。お前が立ち直らんとあかんねやっていっていることを知った。
その時、勝手に背負っていた肩の重荷が吹っ飛んだ。
助けられる側、祈られる側の「みじめ」だと思っていた姿になった時に、本当の自由と喜びを知った。
心のどこかでそんな「恥」の部分を隠していたのだと思う。
それがイエスの言葉で丸裸にされたのだ。
隠していたものがあばかれる時、
それは「恥」である。
しかし、神の前でかく恥は、解放の始まりだ。
偽善は悪いことだけど、悪いことじゃない。
ただ、縛られているだけだ。
どうしようもなく、「恥」に支配されていることじゃないか。
僕もまだまだ恥に支配されている偽善者である。
でも神の前に裸で降参する時、そんな時が一番好きだ。