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【短編小説】 『音』 後編

半年後、世界はまだ静寂に包まれていた。

しかし僕の世界は一年前より賑やかだった。

教会のその無料手話教室は人で溢れかえっていた。
音のない世界でそうなるのは、よく考えれば当然のことだ。
無料だし。
みんな会話がしたいんだ。

そして、みんなが急速に手話ができるようになった。
そこでの会話が楽しいのだ。
その気になれば、いくらでも調べられる。
やる気さえあれば習得は早いのだ。

僕も手話を始めて半年で、本当に流暢に話せるようになった。
もう日常会話は問題ない。
知らない単語も聞き返せる。
その説明がなんなくわかる。

実は平日も教会に行っていた。
できるだけ手話での会話がしたかった。
教会の人たちはほとんどみんな手話ができた。
そして何より、友達ができた。

最初に手話を教えてくれたあのおばさんは、有馬さんという人で、同じ街に住んでいる。
僕に本当に優しくしてくれて、たくさん手話も教えてくれた。
家に招いてくれたりもした。
旦那さんは早くに亡くなったらしい。
あったかいご飯を出してくれて、たくさん話もしてくれた。
そんなこと、音ロスト以前には経験したことがなかった。

有馬さんだけじゃなく、たくさんの友達ができた。
元々耳の聞こえない人たちは、みんなめちゃくちゃフレンドリーなのだ。
なんというか、警戒心がない。純粋な目をしている。

それだけじゃなく、手話教室では周りの人とグループになって会話の練習をするから、父親ぐらいの歳の人とも、それを通して仲良くなった。
僕を評価してこない"大人"は、新鮮だった。
行ったことのない居酒屋に連れていってくれたり、手話のことを僕にチャットで聞いてきたりした。
僕が教えると「ありがとう、ありがとう」と言った。

広がる。
僕の世界が広がっていく。


街を歩くと、"会話"している人が増えていることに気づいた。
手話だ。
手話で会話をしている人が増えているのだ。
あの人も、、、あ!あの人も!教会で見たことがある!
この半年で、教会を拠点に手話が広がっているのだ。

そしてその表情は、以前よりも楽しそうだ。

初めて手話教室に行った時、有馬さんたち先生が見せてくれた手話は、まるで踊っているようだった。
手話では身振り手振りと同時に、口を大きく動かしてその言葉を伝えようとする。
それが本当に楽しげに見える。し、本当に楽しいのだ。
言葉だけの会話より、「表現」という感じだ。

そして手話の時、人は近い。
物理的にも、心理的にも、だ。
相手を見るしかできないので、相手の話に集中することになる。
それが僕にはとても嬉しかった。
それが嬉しいと気づいたのも、手話を初めてしばらくした頃だった。

「ああ、僕は寂しかったんだ」
ポンと心に浮かんできた。
河川時に座って夕日を見ていた時だった。

僕の両親は仲が悪い。
僕が小学生ぐらいの時からだ。
食卓での会話は重く、その日に学校であった出来事も、話すタイミングを伺っては、失敗した。
食卓以外で話しかけようにも、ずっとスマホを触っている。
相槌は返ってきても反応は返ってこない。
いつしか、挑戦もしなくなり、むしろ拒絶するようになった。

「ちゃんと聞いてもらいたかったんだなぁ」
周りからは口パクに見えただろう。
でも確かにそう呟いて、涙がポロリとこぼれた。

有馬さんは親に捨てられたと言っていた。
衝撃だった。
しかもそれは耳が聞こえないからだという。
そういう時代だったんだという。明るく笑っている。
手が動かなかった。
でも有馬さんが不幸だとは、ぜんぜん思わなかった。
今、笑っているから。
そして僕を笑わせてくれたから。

でも僕にはまだ、できることがあると思った。


音ロスト以後、本当にただの作業になっていた食卓についた。
お父さんはいない。いつも通りだ。
お母さんも僕と話すことを諦めている。
ロスト以前はずっとイヤホンで拒否していたから。

そのお母さんのいつも座るところに、一枚の紙を置いた。

お母さんがご飯を運んでくる。
その紙に気づく。
配膳を終えて、席に着く。
スマホが光った。
「この紙は何?」
というLINE。

僕は前を向く。
そして手を動かす。
「え?」
と言っているのであろう顔でこっちを向く。
やっと僕の目を見たな。

「し・ゅ・わ」
指文字で伝える。
お母さんは指で紙をなぞり、解き明かす。
「ああ! 手話!」
と動く口。
紙は指文字五十音表だったのだ。

「べ・ん・き・ょ・う・し・た・ん・だ」
また、お母さんは顔を歪める。
「えーと、、、」
そういう顔でまた下を向く。
もう一度、ゆっくり指文字をする。
「ああ!」という顔で今度はスマホに向く。

「ちょっと! なんなのよこれ!」
というLINEの通知でスマホが光る。
僕はニヤリと笑って、パタンとスマホを裏向けた。

「こ・れ・で・は・な・そ・う」
と言って紙を指差した。
困った顔をして、でもお母さんは、
「わ・か・っ・た」
と2分かかって指文字をした。


世界が再び音に溢れた。
音ロストから二年が過ぎた頃のある日のことだった。

音のない世界に慣れ過ぎて、すぐには気づかなかったほどに唐突だった。

でもみんなが喜びに溢れた。
すぐに音楽が息を吹き返した。
だれもオンラインでの会話をしなくなった。
街が人で溢れた。

僕たち家族は、手話で会話を続けた。

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