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【短編小説】 『叫び』

男は少し微笑んで、少しも躊躇うことなく足を踏み出した。

2万人の大群衆の前、
巨大なスクリーンと楽器隊を背に、
一度限りのステージに立った。

沈黙が流れる。
男が何も言わないからだ。

右の奥の方で誰かが男の名を叫んだ。
やまびこのように、
ポツポツとその名がこだました。

そして男が喉を震わせるより前に、
会場は大きな騒ぎになった。

その叫びが頂点に達したところで、
男は大きく息を吸った。

最期の叫びの始まりである。

***

夜の森の静寂の中で、
男は少し微笑んで、少しも躊躇うことなく全裸になった。

男2人で湖の前、
満月の明かりを背に、
波打ち際に寝転んだ。

心の奥の方で誰かが私の名を叫んだ。
洞窟の中のように、
ぐわんとその声が響いていた。

なぜか会話を交わすよりも前に、
心が感動に満たされていた。

私の目から涙が溢れそうになった時、
男は小さく息を吸った。

最初の日のことである。

***

飛行機のエンジン音の中で、
男は少し微笑んで、少しも躊躇うことなく、フィンランドの地に降り立った。

言葉も知らず、人も土地も知らぬ国を前に、
後ろに残してきたものは何もなく、
何も持っていない手を広げた。

その後ろにいた私は男に声をかけた。
私は早く前に行きたかったのだ。
強い風の音にかき消され、
その声は届いていないようだった。

男の顔を見る前に、
心に緊張が走っていた。
何かを予感していたのだろう。

もう一度、私が声をかけた時、
男は振り返って言った。
「おまえの家に泊まることにしている」

男が言った最初の言葉である。

***

家に向かう車の中で、
男は少し微笑んで、少しも躊躇うことなく窓を開けて歌い始めた。

初めて会った私に、
私がどういう人かも知らずに、
何も持たずについてきた。

その手には何もなかった。
本当に何も持ってきていなかったのだ。
着替えもハブラシも、カバンすらなかった。
財布には帰りの飛行機代も入ってなかった。
私は驚いてしまって、ただついてくるその男を拒むことなく車に乗せた。

日本から来たその男は、私に通じているのかを確認することもせず、日本語で話し続けた。
日本に留学していた私は、流暢な日本語を前に、ここが故郷、フィンランドであることがわからなくなった。

私が言葉を発する前に、
私の隣を歩き始めたこの男は、
私が男の世話をすることを、全く疑っていないようだった。
私も不思議と、嫌な気がしなかった。

私が「名前は?」と聞いた時、
男は歌うのをやめて言った。
「ダン、神野ダンだ」

男の名を聞いた、最初の時である。

***

私の実家の中で、
ダンは少し微笑んで、少しも躊躇うことなく、私のベットで寝た。

私は困惑する両親を前に、
どう説明すればいいのかわからなかった。

私はダンの名を呼んだ。
まるで彼の家かのように、
家中にイビキが響いていた。

誰も納得しないまま、
ダンは我が家で暮らすことになった。

母さんが作ってくれた歓迎のごちそうを、
ダンは口いっぱいに頬張った。

食事を共にすると、みんなダンのことが好きになった。
食事の間、私にしか通じない日本語で、私の両親に話しかけ続けていた。

最初の晩餐である。

***

湯気がたちのぼるサウナの中で、
ダンは少し微笑んで、少しも躊躇うことなく石に水をかけた。

この神聖な空間をダンは、
とても気に入ったようだった。

初めてサウナに連れて行った夜、
美しい森の中を全裸で散歩し、
月に輝く湖の前で寝転んで、
ダンは言った。
「おれ、もうすぐ死ぬんだよね」

私が言葉を発する前に、
ダンは大きな声で歌い始めた。
私は何も声をかけられないでいた。

どうして死ぬのか。
どうしてここに来たのか。
どうして私に打ち明けたのか。
そしていつ死ぬのか。
それらが聞けぬまま今日まで来ていた。

逞しい彼の体は、あの言葉がなければ死を連想させることはない。
汗が吹き出して、湯気が立ち、生命エネルギーに溢れている。
自然に、語るように、ふいに口から歌が出てくる。

私がサウナから外に出る前に、
ダンがこのように歌ったのを聞いた。
「明日、死んでもいいように〜♪」

湖に入って体を冷やし、
その前にある椅子に寝転んだ。

「本当に死ぬのかもしれない」
そう思ったら心臓がギュッとなった。

命をどう燃やそうか、
考え始めたのはこの時である。

***

私の仲間たちの中で、
ダンは少し微笑んで、少しも躊躇うことなく、彼らと肩を組んだ。

彼らはバンドをやっていて、
私の昔からの仲間達だった。
ダンがいつも歌っている歌と、彼らに出会って欲しかったのだ。

そのうち彼らの持っているスタジオに連れていかれ、
ドラムやギターやアンプに囲まれた、
真ん中にダンは立った。

沈黙が流れる。
ダンが何も言わないからだ。

私はダンに声をかけようとした。
何をしたらいいのかわからないのかと思ったのだ。
しかしダンは、ものすごく集中していた。
目を見開いて、一点を見つめ、何かを探っている。

緊張感があった。
私も汗をかいていた。
彼らは楽器の前で静かに待っていた。
時々こちらを見る。
「彼は大丈夫か?」と言わんばかりに。
私にも彼らにも何の説明もなく始まったのだ。
しかし、彼の作る空気の中に、しだいに飲み込まれて行って、
みんながジッと待っていた。

その緊張が頂点に達した時に、
ダンは小さく息を吐いた。

そして声を吐いた。

繰り返し、繰り返し、
同じメロディで、同じ言葉を歌った。

そこに楽器が加わっていった。

そこに新しいメロディも、新しい言葉も加わっていった。
バンドは不思議と、それに合わせて演奏することができていた。
すべて日本語だった。
私だけがわかったが、すべての意味はわからなかった。
このフレーズだけが耳に残った。

「おれはもう死んでもいい。全部、あんたにゆだねてる」

歌が始まって30分が経っていた。
何度も繰り返されるフレーズに、飽きることはなかった。
言葉ごとに新しく、新しい感情が伝わってきた。

歌は、叫びで終わった。

***

地元の人々に囲まれる中で、
ダンは少し微笑んで、少しも躊躇うことなく、その人混みを抜けていった。

この小さな町で、あのバンドは少し名の知れたものだった。
そしてドラムのアルは、自分の直感に従って、ダンが真ん中に立った時に、
カメラを起動し、配信を開始したのだった。

ゲリラ的に始まったライブであることと、真ん中に立つ男のありえないほど長い沈黙によって、
その配信は話題となり、多くの人が観ることとなった。
そのことは小さな町の中に広まり、ダンは有名人になった。

誰かが町でダンの名を呼んだ。
やまびこのように、その名がこだまして、
人が集まってきた。

ダンはそこで、歌った。
そして町は大きな騒ぎになった。

その騒ぎが頂点になったところで、
ダンは大きく笑った。

そして終わりに向かって歩き出したのである。

***

真冬の冷たい夜の水の中に、
ダンは少し微笑んで、少しも躊躇うことなく、足を踏み入れていった。

大自然を前に、
心配そうに見守る私を背に、
ダンが言った。
「フェスに出る。
 二万人の前で歌う。
 それで終わりだ」

沈黙が流れる。
私が何も言わないからだ。

「ハハハ!
 そんな顔するな!」
森の中にダンの笑い声が響く。

「言っただろう。
 もうすぐ死ぬんだ。
 笑ってくれ。笑ってくれ。
 歌いながら行こう。
 人生の旅を、最期まで、歌いながら」

ダンが話し終わるより前に、
私は泣いていた。
「ダン、君にお礼を言いたい。
 君の生き方に私は救われた。
 私は生まれ変わった気分だ。
 生きるということを、私は君から教わった。
 生きるとは、何も持たぬということなんだ。
 歌いながらゆこう。
 私も歌う。だから、ダン、一緒に、、、」

私が言い終わるより前に、
ダンは大きな声で歌い出した。

森中にその歌が響いていた。

***

「痩せたね」という私の言葉に、
ダンは少し微笑んで、少しも躊躇うことなく、アクセルを踏んだ。

フェスの会場に続く道を前に、
助手席に私、後部座席に私の両親を背に、
車を運転していた。

「おれの運転で行かせてくれ」
そうダンが言ったのは、ライブ当日の朝だった。
「どうか見届けてほしい」
そう言って私のオンボロのバンで出発した。

結局、ダンが歌う姿が配信されたのはあの一回だけだった。
その後、バンドは沈黙した。
ダンがそうさせたのだ。

沈黙が続けば続くほど、大きな騒ぎになった。
動画の再生回数はどんどんと膨らみ、
私のところにも、ライブはないのかという声が届いた。
そしてついにフェスからの招待があったのだ。

私の仲間たちであるバンドのメンバーは無理だと言った。
自分達も出たことのないような大きなフェスである。
しかしダンが、この時を待っていたこと、そしてこれが最期であることを告げると、
皆、ダンに従うと言った。

「伝えたいメッセージがあるんだ」
と、ダンは言った。
そして何度も打ち合わせをした。
私も通訳として同席した。
咳が増え、喉が枯れていった。
しかし生命エネルギーは増しているような気がした。

長い坂を登って頂点に達したところで、
ダンは話さなくなった。

それが私とダンとの最期の時となった。

***

男は少し微笑んで、少しも躊躇うことなく叫んだ。

喉がちぎれんばかりに。
血管が切れるほどに。

私たちは舞台袖からそれを見ていた。

その叫びをすべて聞き終わった時、
会場で暴動が起きた。
人々は大声で叫びながら、耳を覆い、男に向かって殺到した。

そして彼を舞台から引きずり下ろすと、
殴り、蹴り、唾を吐いて、嘲笑った。
血と汗と唾が彼を纏った。
私も、バンドのメンバーたちも、何もできなかった。
巨大な暴力を前に、ただ立ち尽くすしかできなかった。

私たちは、このことを知っていたのだ。
先に聞いていた通りになった。
「いいか。
 おれはな、分裂をもたらすんだ。
 平和じゃない。
 それは起こらなければならない。
 おれは死んで、皆が生きるためだ。
 暴力に怒ってはいけない。
 そいつらは自分で何をしているのかわかっていないんだ。
 人は、壊して初めて壊れていることを知るんだ」

暴動が静まった。
太陽が雲に隠れた時、人々が我に返ったのだ。
人々が離れていった真ん中に、ダンが倒れている。

ゆっくりと、ダンの拳が上がった。
その手は震えている。

ダンが何かを叫んで、そしてダンから力が抜け落ちた。
その時、舞台にかかっていた幕が破れた。

ダンの口元は、少し微笑んでいるように見えた。

私の隣にいたスタッフの青年が呟くのが聞こえた。
「この人こそロックだ、、、」

これがダンの最期である。

***

私は少し微笑んで、少しも躊躇うことなく言った。

「この人を見てください。
 とにかく、この人を見てください。
 みんなが生きるために、おれは死ぬんだと言った、
 この人を見てください」

大勢の記者を前に、
仲間のバンドメンバーを背に、
私は会見の席に座っていた。

このことは大きな事件になった。
世界中で報じられた。
そのライブ映像は世界中で翻訳され、世界中で見られた。
そして怒りの声と、悲しみの声で分裂が起こった。
しかし時が経つにつれて悲しみが大きくなっていった。

彼は私が連れて返って、亜麻布で包み、彼とよく歩いた森に埋葬した。
それから数日経って、このことは日本にも届いたはずであるが、特に彼の家族や知人からの連絡はなかった。

警察は誰かを捕まえるということはできなかった。
あまりに関与した人が多すぎたのだ。
そして私たちが、それを止めたのだ。

そして彼のことを伝えるために、会見を開くこととなった。

沈黙が流れる。
私はゆっくりと、彼のことを話し始めた。

そしてすべてを話し終えた後、誰かが手を叩いた。
やまびこのように、
その拍手は広がっていった。

私が立って頭を下げた時には、
大きな歓声が上がっていた。

その後、私の元に、たくさんの手紙が届くようになった。
その多くが、喜びの手紙であった。
それはかつて私がダンに言ったような、
「生まれ変わった」という報告だった。

一粒の麦が地に落ちて死んで、豊かな実りの始まりである。

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