#5 誠実
もう1つ、思い出深いアルバイトがありました。
「駐車場のアルバイト、時給がいいからおいでや。
運転免許さえあれば大丈夫やから。」
高校時代の友達に誘われたのは、
大阪ミナミの駐車場で車の誘導と運転業務です。
運転席に乗り込み、立体駐車場に車をいれるだけでなく、
敷地内のスペースを有効利用し、隣の車との間を
ギリギリ数センチ単位で停めていかなければなりません。
平日は営業車が中心で、日祝は外車が多くなります。
バイトを始めて間もない頃のことでした。
上司から渡されたのはベンツの鍵。
少し前に、駐車場から出て行かれたダブルのスーツを着た
コワモテの方のものでした。
はじめての左ハンドル。
慎重に、慎重に、そう頭で考えれば考えるほど、
ハンドルを握る手は震えました。落ち着け、落ち着け。
もう少し、あと少し、ガリ…ガリガリ……
右後ろのバンパーが悲しそうに鳴いていました。
やってしまった……
ダブルのスーツのシルエットが脳裏に浮かびました。
大阪湾の海の底。そんなフレーズが頭をよぎりました。
恐る恐る上司に報告すると
「お客様が帰ってこられたら、一緒に謝りに行こう!」
と言ってくれました。
なんて優しい上司なんだろうと胸がジーンとしました。
それからまもなく、お客様が戻ってこられました。
コワモテの方ではなく、奥様らしき女性でした。
上司と私は奥様のところに行きました。
そのとき、信じられないことが起こりました。
上司はいきなり僕の首根っこをつかんだと思うと、
「こいつがお客さんのクルマを傷モノにしてしまいました。
煮るなり焼くなり好きにしてください。」
と、まるで猫を引き渡すように、前に突き出されました。
「一緒に謝りに行こう!」
さっきの上司の言葉が頭の中でリフレインしました。
何だったんだろうあれは…。
やりきれない気持ちになりました。
その女性のお客様はとても驚いていましたが、
「何があったん? 説明、聞かせてくれる?」
とおっしゃったので、僕は傷の部分を指差しながら、
コトの経緯をできるだけ詳細にお伝えし、
「本当に申し訳ございませんでした。」
と必死で頭を下げ、お詫びしました。
頭を下げ続けていると、
潜ったこともない大阪湾の底が見えてきました。
「このくらいやったら、もういいわ。めんどうやし。」
(え?)一瞬何を言われているのかわかりませんでした。
思わず、「いいってどういうことですか?」
と、聞き返してしまいました。
「あの人に言ったら、ややこしなるから、
知らんかったことにするわ。」
でも……と、言いかけた僕の言葉を遮るように、
「いや、もうええから、ホンマに。
でも、正直に言ってくれてありがとう。」
と言って、奥様は颯爽とベンツに乗り込み、
堺筋の方に走っていかれました。
キョトンとしたままの上司と僕だけが駐車場に残されました。
捨てる神あれば拾う神あり。そして、九死に一生を得ました。
その後、ご夫婦の間でどういうやりとりがあったかは、
いまだに謎です。
でも、奥様が最後に言ってくださった
「正直に言ってくれてありがとう」
という言葉は、今でもとても印象的な響きとして
心に残っています。
誠実であること。
それはどんな時でも大事だということを教わりました。
そんな学生生活が2年ほど続いた、ある日のこと、
安間がオーストラリアに行くと言い出しました。
(つづく)