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『あいだからせかいをみる』あとがき一部公開

10月末に生活綴方出版部より刊行された『あいだからせかいをみる』(温又柔+深沢潮+辻野裕紀)の辻野裕紀による「あとがき」の一部を版元の許可を得て公開します:

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 最初の対談から早くも七年が経過した。そして、その間にはコロナ危機のように、社会のありようを根底から変える出来事もあった。概して〈多様性〉に対する社会の意識が高まり、マイノリティへの集合的関心が少しずつ醸成されてきたことは、この時代のメルクマールとして記憶されてよいだろう。一方で、偏頗な僻論が未だ跳梁跋扈しているのもまた事実であり、それが人々の分断を生み続けている。ヘイトクライムや入管問題など、座視できない事柄があまた残存しているのも残念なことである。二〇二三年という時期に本書を上木して世に問うことは今なお意味があることと信ずる。
 本書全体を貫く主題のひとつは「あいだ」である。それゆえ『あいだからせかいをみる』という書名にした。深沢氏も温氏も常に「あいだ」から「せかい」を眺望し、それを文学という形態で鋭く考究してきた人である。「外国」にルーツを持つ彼女たちの作品群から「日本人」が「気づき」を得ることは非常に多い。しかしながら、私たちは誰もが「あいだ」にいる。多様性への真の理解とは、世界の多様性を認知することではない。むしろ自身の内側に宿る多様性を繊細に感取することである。例えば、ユングを考拠とするまでもなく、女性の中にも男性性が、男性の中にも女性性が潜在していることは、直感的に理解できるだろう。フロイト的に言えば、多形倒錯的な性のゆらぎも、おそらく多くの人が幼児期に経験したことだと思われる。ある側面に着目すればマイノリティだが、別の側面に目を転ずればマジョリティだということもよくある。
 詮ずるに、私とは複数の〈わたし〉が輻輳する場であって、そこに首尾一貫性はなく、常にゆらいでいる。そして、そのときそのときに立ち現れるすべてが〈わたし〉であり、それはとりもなおさず「あいだ」を生きるということにほかならない。そうした〈わたし〉の複数性に敏感になること――これこそが他者の生への想像力を賦活させ、よりよい社会を作っていくためのよすがとなるのではないか。対談・鼎談の原稿を読み返しながら、そんなことを改めて感じた次第である。

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