【ショートストーリー】女神は反旗を翻す【1900字】
「カナちゃんって、可愛いの?」
亜由美の白くて細い指に、不釣り合いなものが握られている。刃渡り20㎝はあろうかという出刃包丁だ。
さっきまでオムライスの材料を切っていたであろうそれを、亜由美は自分の顔面すぐ近くで構えている。
視覚情報の強烈さに頭をぶん殴られたような感覚を覚えながら、俺は必死に考える。
カナちゃん…どの子だっけ。
俺の一人暮らし用の狭い部屋には、残念ながら逃げ場なんてない。大学のミスコンで準優勝するぐらい整った亜由美の顔が、別人のように歪んでいる。
今日はまったりお家デートのはずだったのに、どうしてこうなった。
「…誰だよ、カナちゃんって」
嘘はついていない。カナちゃんが誰だか分かっていないからだ。リサちゃんやミホちゃんやアヤハちゃんとのことを追求されたら困るが、カナちゃんはその中に該当しない。だから、セーフだ。
「しらばっくれないでよ…この前寝言で名前呼んでたよ」
「いやいや嘘だろ、カナって友達いなし」
亜由美が一歩踏み出す。すらりと長い、手入れが行き届いた生足。隣を歩いていると、時々道行く男が振り返る程の美脚だが、今はただただ、死刑宣告を告げにきた刑務官の足音よりも怖い。
「ていうか、危ねーからやめろって」
俺が必死でそう訴えても、亜由美は止まりそうにもない。少し腕を伸ばせば刺されそうな距離まで来ている。俺は作戦を変えることにした。
「分かった、謝る、ごめん。カナちゃんのことは分かんねーけど、そんなもの持ち出すぐらい、不安にさせたことは謝るから」
そう言って俺は、亜由美の右手首を握る。もっと抵抗するかと思ったが、予想に反して、亜由美は俺になされるがままだった。
俺は極めて慎重に、亜由美の手から包丁を奪う。そうしてすぐさま体を伸ばして、自分の後ろにあるベッドサイドに包丁を注意深く置いた。
亜由美が再び凶行に走らないよう、その華奢な体を抱き寄せる。甘い香水が俺の鼻腔をくすぐった。
「…亮太の馬鹿。謝ればいいって思ってるんでしょ」
甘えたようなニュアンスの涙声で訴える亜由美の頭を撫でる。
「ごめんな、でも本当にカナちゃんって誰のことだか…」
きっと亜由美はカマをかけただけだろう。女の勘というのは侮れない。サヤカやマキのことも感づかれてはなさそうだ。良かった、と俺は胸をなでおろす。俺は常に先を見据えて行動ができる男だ。証拠隠滅なんて容易い。
「一回落ち着こうぜ、な」
少しヒステリック気味なところは玉にキズだが、今までの彼女でダントツに美しい亜由美は、そんな長所を補って余りあるぐらい魅力的だ。そう簡単に関係を解消したい訳がない。
「そしたら、オムライス一緒に食べよ…」
俺の肩口で顔をうずめ、ぐずるような声で訴える亜由美の声に誘導されるように、皿に盛りつけられたオムライスに視線を移す。
亜由美の大きな欠点はもう一つあった。料理のセンスが抜群におかしい。
一度手料理を振舞ってくれた時は絶句したが、食べる機会を作らなければいいだけの話だ。それからは何かと理由を作り、俺が料理したり外食に誘導するなどして何とか切り抜けてきた。
今日わざわざ材料を買って押しかけてきたのは、俺を包丁で脅すためだったのかと合点がいく。
「うんうん、食べよう。食べてゆっくり話そう…」
少しでも機嫌を直したい俺は、配膳されてあったスプーンにゆっくりと手を伸ばす。
卵にくるみきれていない、チキンライスを一掬いし、スプーンに盛られたそれを見つめる。薬品のような匂いが混じっているような気がする。食べたくない、という気持ちとベッドサイドの包丁の存在感が、俺の中で駆け巡った。
大丈夫、これは俺にとっては最高にうまいオムライスだ。
「いただきまーす」
浮気と似ているな、と思う。
人に嘘をつくときは、自分がその嘘自体が真実だと思い込むことが一番大事だ。5股なんて事実は存在しない。俺が世界で一番愛しているのは亜由美ただ一人だけだ。
世の中に露呈しない嘘は、真実を脅かさない。だからこそ俺は嘘を死ぬまで貫き通すことに全力を注ぐ。
それが俺にとっての最大限の誠意だと言ったら、世の中の人間は軽蔑しかしないだろうけれど。
「うん、うまい・・・・・・・・・・」
途端、めまいのような感覚を覚える。体が震えたかと思うと、吸い寄せられるように力が入らなくなった体が床に叩きつけられた。
「…やっと上手くいった」
亜由美の声が遠く聞こえる。
「自白剤の中でも強力なやつなんだって、これ。飲み物だと色変わっちゃうし、あんたに食べさせるの大変だったんだから…」
瞼が重い。思考が回らない。
指貸して、と手が引っ張られた。出会い系アプリばっかりじゃん、という吐き捨てる声がする。
「ぜーんぶ、白状してもらうからね」
カナちゃんって、思い出した。働かない頭で、俺はたった一つだけ謎を解くことができた。
俺のおふくろの名前だ。