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大学1年生の夏、明治大学生協で「愛と幻想のファシズム」単行本を購入した
桐野夏生の文庫本はすべて我が家にある(別の投稿記事の通り)。
同様に、すべての文庫本を購入している現役の作家と言えば、カズオ・イシグロ、M・W・クレイヴンなどがいる。
このようないわゆる「作家読み」をすることはあるが、購入するのはすべて文庫本であり、単行本は買わない。単行本はかさばるし、高価なので、中高生の頃から基本的に小説を単行本で購入することはない。
ただ、例外はある。まず、どうしても読みたい小説であるが、文庫本のないマイナーな出版社から刊行された(文庫化される可能性が低い)ケース。
それと、一日でも早くその小説を読みたくて文庫化まで待てないケース。
後者のケースで、購入時のことをまざまざと記憶している小説が、村上龍の「愛と幻想のファシズム」(1987年8月発行)である。
同書の単行本は、大学1年(1987年)の夏、部活動の一環で模擬国連に参加するために上京した際、空いた時間に明治大学生協に立ち寄って購入した。帰りの新幹線で貪り読んだ記憶が鮮明だ。
なぜ分厚い単行本(上・下)を旅先で急いで購入したのか。
直接の原因として、受験勉強のさなかに繰り返し読んでいた「EV.Café 超進化論」なる書物の中で、ちょうど雑誌連載中だった村上龍が「愛と幻想のファシズム」の着想などを何度も熱く語っていたために、小説への興味がいや増したことがある。
「EV.Café 超進化論」(1985年11月発行)は、村上龍と坂本龍一の二人が、当時メディア等にしばしば登場していた旬の学者や思想家と繰り広げた刺激的な鼎談の記録である。登場するのは、蓮實重彦、浅田彰、柄谷光人、吉本隆明などなど。この時代の言論界(ニューアカデミズム)を代表する面々で、当時、「現代思想」と呼ばれたカテゴリーの中で語られていたあれこれがぎゅっと濃縮された書籍である。
いずれの鼎談も、高校3年生から浪人時代にかけての自分にとって刺激に満ち溢れた内容で、繰り返し読んでは自分の中で咀嚼していた。
その結果として、まんまと村上龍の宣伝戦略に乗って(?)、「愛と幻想〜」を読みたくてたまらなくなっていたわけである。
ぼろぼろの「EV.Café」がまだ書架にあったので、「愛と幻想のファシズム」に付された注を読んでみよう。
*「愛と幻想のファシズム」
1984年1月1日号から「週刊現代」に連載の最新長編。1989年、日本経済は多国籍企業集団「ザ・セブン」に牛耳られ、その状況を打破すべくサヴァイヴァリスト相田剣介をカリスマとする政治結社「狩猟社」が結成され、日本の経済政治機構を操り、次々とパニックとクーデターを起こし、世界恐慌を誘発させる壮大な近未来小説。この鼎談は執筆時期とも重なり、小説の創作ノートの役割をも果たしている。85年末に完結の予定。
「EV.Cafe」が小説の「創作ノート」の役割を果たしていたとは(!)、いま改めて確認できた。
ところで、上京した際、どうして明治大学生協に立ち寄ったのか。
それは、「現代思想」界隈で、高校・浪人時代に愛読していた栗本慎一郎が在勤していた大学だからだった。
受験生当時、クリシン先生の経済人類学に導かれて哲学・思想の世界に深くはまり込んでいて、大学に進学した暁には、経済人類学/経済学/文化人類学などなどを学びたいと考えていた。クリシン先生が、慶應義塾大学卒業の際、学問の世界で「世界を獲得する意志」を表明する答辞を読んだというエピソードに感化されていた、当時のピュアな自分がいたことを思い出す。
「愛と幻想~」の世界観に夢中になる訳である。当時のクリシン先生の主著の書名も「幻想としての経済」であるし。
そんな諸々を背景として、大学1年の暑い夏の日、同行していた大学サークルのメンバーから一人離れて、発売直後の「愛と幻想のファシズム」単行本の購入に走ったのであった。