Vol,5 歴史の話。②
まずは何か昔の資料を探すところからです。
肥前吉田焼窯元協同組合にお願いし、発掘調査の資料をお借りしました。
平成3年から平成9年までの発掘調査報告書です。
これはとても貴重な資料です。
その中のこちらの地図。
今は閉鎖されていますが、陶石の採石場の跡地から2つの方向に分かれて窯の跡地があります。
発掘調査報告書では吉田1号、吉田2号と記されていて、どれくらいの大きさでどのような形の器が出てきたのか、年代はいつ頃なのかなど詳細に書かれています。
その中で、
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開窯時期については諸説があり、定かではないが、
1、寛永十六年(1639年)に蓮池支藩が創設されて、初代藩主鍋島直澄が窯業を奨励し、有田より招いた副島雲谷が寛永二十年(1643年)吉田山を開窯した説
2、藩主鍋島直澄が隣接する塩田町の五町田、久間(蓮池領)に開窯の後、承応三年(1654年)に吉田に窯を開いた説
3、藩主鍋島直澄が寛文年中(1661~1673年)に有田南川原より、副島、牟田、金ケ江、家永の四人を指導者として招き、従来の小窯を廃して二登の大窯を築造した説
4、「龍泉寺過去帳」や「蓮池藩請役所日記」から1657~1667年頃に開窯していることを窺わせる記録があり、出土した遺物からも九州陶磁文化館による調査結果、嬉野町の発掘調査結果から1650年代を開窯の時期と想定するに至る。
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とあります。
うーん。。。やっぱりハッキリとはわからないですね。
さすがに400年近く前になると資料が少ないです。
また、嬉野には内野山、不動山でも発掘調査が行われており、磁器だけでなく、陶器も多く出土しています。
今の吉田焼は磁器の産地ですので、磁器がいつから造られ始めたのか、どのように造られていたのか、まだまだわからないことだらけで資料をもっと集めないといけないようです。
続きはまた次回に。
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