大人は狡い

若い人たち、ここでは学生やこれから社会に出るような人たち、と定義しておこうと思う。もちろん自分を含める。さまざまな壁や苦悩がある中で、相談する相手に迷いながら、個人的に辿り着くのは家族であり、いわゆる大人だ。理由は簡単で、経験があるからだ。経験則はバカにできない、と思う。年月の壁はどう頑張ってもひっくり返らない。仮に自分が20歳で親が40歳なら20年の乖離は近くなることも遠ざかることもない不変なものである。この経験の差は大きい、そう思うからこそ、自分は結局大人に聞くんだと思う。


ただ同時に、あまり良くない、というより、はっきり言えば、相談しても無駄だと思うこともある。それは、経験は、ある種、その人の自信になり、それは間も無く、その人の正解になる可能性が高い。人生を長く生きている人であればあるほどそうなる傾向が高い気がする。気がするだけだ。たくさんの会話をするなかで、輝く夢や希望の光が失われることが多くあった気がする。代表例は、意見を貰い、自分自身で長考した挙句、そのもらった答えが自分の中でも最適解にしか思えなくなる時だ。自分なりに無限大に広がっていた夢に、一瞬にして雲がかかる。なぜなのか。相談する前までは無限に広がってたはずなのに。


辿り着いたのは、

「夢はそもそも非現実的な方向に進みがちなのは理解しているが、その非現実性に賭けたい」

と思う感情を、若い人たちは持っているのだと思った。経験が少ない故に行き着く領域だと思う。生きていく中で自分の経験を得るたびに、思考回路は「実現可能性」と仲良くなる。僕はそれが大人だと思う。若造の自分が辿り着く思考領域を軽く超えてくるのが大人だ。だから、大半の場合、大人の考えは柔軟性こそ少ないかもしれないが、実に現実的で正しいことが多い。


しかし、


「正しいことを正しいように言っても相手の心には響かない」


この言葉を聞いた時、まさにだな、と思った。実に現実的で真っ当な意見なのに、何故か、心にはあまり響かない。むしろ雲がかかる。自分が大人になった時も同じように、人生で培った経験で意見を提示するだろうか、それとも、若い人たちが持つような純粋無垢な感性をもって、相手の立場を考慮して意見を提示するだろうか。今は断言できないが、後者でありたいと強く思う。

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