文星閣水なし印刷ストーリーVol.1
1)始めたきっかけは連続給水装置を壊した私のせい?
私が水なし印刷と出会ったのはちょうど大学3年(20歳前後)当時はKORDという菊判半裁(60cm✕45cmぐらいの大きさの紙サイズ)ハイデルベルグ製(ドイツの印刷機メーカー)単色印刷機のオペレータをしていた時期でした。
オフセット印刷機と言うのはプロローグでもお話した、アルミ板の刷版という版を版胴という円形の筒に貼り付けて先ずは水棒という桶に水を張った状態の水ローラーを版面に充てて版面に水を塗り付けた後、インキローラーでインキを版面に乗せるのですが、版面上では画線部にはインキが乗り、それ以外の非画線部には水が貼ってある状態でインキが乗らない仕組みとなっており、水と油(インキ)の反発作用を用いてインキをブランケット胴というゴム版に移し替えた後、紙に転写していくのが通常でした。
印刷には版から直接、紙に転写させる場合、版自体を逆版にしないと正向きに印刷することができません。文字や写真の向きなど、逆に見ても正しい向きなのかわからないのですが、一旦、ブランケット胴というゴム版に転写してから、紙に移すことにより、印刷物と版が同じ正向きで確認することができるため校正のしやすさでオフセット印刷という技術になったようです。
そのため、『水を制するものが印刷を制する』と言われるほど、この水の役目は大変重要なものでした。基本水の表面張力をアルコールなどを水の中に添加し、限りなく薄い水を版に付着させて油であるインキを水の表面張力で盛り上がった部分に染み込ませることが重要でした。水が多いとインキは乗りませんし、水が少ないとインキが違うところにも乗ってしまい、自汚れという現象となります。
当時、ハイデルベルグはアルカラーと言う連続給水装置が開発されていて、高い回転数をあげても常に一定した水を版面に付着させられる技術を持っていましたが、私の使うKORDはモルトンという布をローラーに巻き付けた布ローラーみたいなもので版面に水を供給していたので、なかなか、キレイに印刷するのが難しかった記憶のみ残っています。地汚れを起こすたびに、水棒ローラーを外し、洗い場でローラー洗浄を繰り返し、汚れが落ちなかったり、布地が毛羽立ってしまうと布地の交換作業となり、面倒でたまりませんでした。
そのKORDという単色機で最初に水なし印刷テストをした後、三菱重工製DAIYAの4/6判半裁(新聞紙を広げた大きさ)の4色機で営業刷りを始めたのですが、当時印刷技術は紙を積んで3年、インキのヘラを握って2年オペレータになるには7年から10年かかると言われていた職人の世界
そんな資格も無い20歳の小僧が(社長の息子だから?)機械のオペレーションをしていたのですから、無理が生じたのかもしれません。ハイデルベルグのアルカラーという連続給水装置に真似て三菱製ではダイヤマチックという最新の連続給水装置が付いていました。これがなかなかうまく印刷ができなかったのが水なし印刷の採用に大きく左右していたようです。約40年前の話なので、文星閣が何故水なし印刷を始めたのか?私なりにいろいろな記憶をたどり、周りの方にヒアリングして調べたところ、当時、弊社の副社長を務めていたT氏が当時のDIC(大日本インキ)の営業から売り込みされてテストしてみようということになったようです。
その最初のテストがKORDを使っていた私がやることになり、ちょうどその時、三菱の新台の連続給水装置がうまく刷れなかった時期と重なり、その機械で最初の営業刷り(テストではなくお仕事の本番で刷り始めました)をしたのがアルバイトオペレータの私だったのです。先程も触れました通り、印刷オペレータは熟練の経験値がないとなかなかうまく刷れないのですが、当時の水なし印刷は経験のない私のような小僧でも、オペレータが務まるという大きな進歩が弊社の当時の成長にも貢献したようです。
当時の東レの開発営業の宮口氏と小川氏(現、日本WPA事務局長長)も弊社に泊まり込みでお手伝いいただき、水を使わなくても良い印刷ができるようになりました。
これが当社と水なし印刷の出会いの最初だと記憶しており、その後の水なし印刷と文星閣は切っても切れない仲になっていきました。
後日談となりますが、つい最近までは私自身がとってもいい加減な性格の持ち主で、当時半人前のオペレータである私が、ダイヤマチックの保守をサボり、壊してしまったのが原因で水なしの導入に至ったという妄想を持っていましたが、実は当時の副社長のT氏の一言で、水なし印刷のテストが始まり、私のような素人にも印刷機を簡単に回すことができたのが導入のきっかけだったというのが事実のようです。もし、当時のテストオペレータが熟練のオペレータであったとしたら、水なしの導入はなかったのかも知れません。
次号Vol.2 簡単な水なし印刷?