善良な人ほど集団の倫理に染まりやすい ー映画『福田村事件』を観てー
森達也監督の映画『福田村事件』を観た。
関東大震災の直後、「朝鮮人が日本人に危害を加えている」というデマが流れ、朝鮮人が多数虐殺された。
その混乱のなか、デマに踊らされた人々が、
朝鮮人と間違えて香川から来た行商人を惨殺してしまうという千葉県福田村での事件を題材にした映画だ。
誰だったら殺されてよかったのか?
集団の正義は本当に正しいのか?
今の社会でも同じようなことが起きていないか?
そんなことを考えさせられる作品だった。
映画は途中まで、不安や悩みを抱えながらも普通に生きている村人たちの様子が描かれている。
それがたちまち震災後、災害への恐怖、今まで差別をしていた朝鮮人から復讐されるかもしれないという恐怖が人々を襲う。
家族のため、村のため、日本のためという正義のもと、人々は朝鮮人をはじめ、異物となる人物を一生懸命に殺していくのだった。
普通の、善良で真面目な人々こそ、集団の倫理に染まったときに酷いことをも平気でしてしまうということが映画を通してよく分かる。
100年前の話だけど、今の社会も同じ道を進んでいるんじゃないだろうか…
命を奪うまではなくても、集団化して暴走してしまう社会。
犯罪者は徹底的に再起不能にすべき社会。不倫した芸能人は誹謗中傷されるべき社会。勝ち組か負け組か、正解か間違いか、二極化される社会。
なんだか福田村事件の残虐性と比べるとしょうもない例になってしまうが、
覗きやら盗撮やら大麻やら、いろんな事件がここ数年、複数の大学の部活で起きている。
話題になったなかで、私が学生時代によく関わっていた部活があった。
事件が話題になったとき、正直「あー、ついに」と思ってしまった。
私が学生のときから、善悪の判断がつかない人が多かったからだ。
元々倫理観を欠いた人たちだったとは思わない。どちらかと言うと、真面目でアツく、部活に一生懸命取り組んでいた印象。
しかし先輩やOBOGが絶対的正義となっている部活という社会に身を置くと、して良いことと悪いことの判断がつかなくなってしまう。
先輩がやれと言ったら絶対。先輩が怖いから(もしくは尊敬しているから?)何でもする。
私が学生のころは注意されるくらいで済んでいた悪戯が、何年か経って立派な犯罪になってしまった。
集団の価値観は暴走してしまうと犯罪として周りから気付かされるまで止まらない。
以前読んだ漫画『ミステリと言う勿れ』(田村由美著 小学館 2018)で、「真実は一つではない」と主人公が話すシーンが好きだ。
登場人物の人数分、それぞれの真実があると。
集団で同じ決断を強いられるとき、
自分たちが異物と認識している者にもまた真実や正義があると一瞬考えられないか。
そう普段から考えておくだけでも、暴走の抑止力になると思うんだけどな。
そんな私も偉そうなことばかり言ってはいけない。
ここから少しネタバレになってしまうが、
映画の途中、行商人が客を騙して物を売りつけるシーンがあった。
私はホッとした。ああ、よかったこの人たちは殺されて大丈夫な人たちだ。こんな悪いことをしているんだから。
行商人のなかにも、好みが分かれた。殺されてほしくないと思った登場人物ほど惨たらしく殺された。
そんなことをひとしきり感じたあと、いや待て待て!と自分につっこんだ。
自分のなかの好みや倫理が、無意識に人の命を比べている。
この好みが集団の倫理になったとき、
集団社会のなかで命の重さが決められてしまう。どのように生きるべきか正解が定まられてしまう。
自分たちにどんな正義があっても、誰かの存在を軽んじてはいけないってことを強く心に留めておきたい。