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人間にしかできない話をします

AI画像生成が話題になって以降、作品そのものよりも、その作者がどんな人で、どんなことを考えて作ったのか、ということの方に興味が湧くようになった。

書籍の奥付けや、映像作品のスタッフロールが気になる。この人たちがこれまでにどんなものを見て聞いて感じて、そして何を考えてこれを作ったのだろう、と思う。

作詞家の及川眠子さんは、「残酷な天使のテーゼ」を2時間で書いたらしい。たったの2時間で作れるなんてすごいですね、じゃなくて、それまでどんな人生を歩んできたんですか、と問うてみたい。なるほど、だからこれを生み出せたんですね。って納得できるはずだから。

私は、グラフィックデザインの仕事を始めて今年で10年になる。デザイナーとしてのこれまでの歩みを振り返りながら、私が今まで経験したこと、その時感じたことを書いてみたいと思う。

私が作っているものはウェブサイトに掲載しているから、併せて閲覧してもらうことで「どんな人が、どんなことを考えてデザインしているのか」が伝わったら嬉しい。


学生時代のこと

私は1992年生まれの32歳で、大学進学に伴って上京するまでは沖縄で育った。マガジンハウスから独立して東京でデザイン事務所を営んでいた父の影響で、デザイナーやアートディレクターという職業を人より早く知った。

幼い頃、「これがお父さんの仕事だよ」とPOPEYEの校正紙を見せられたが、どう反応していいか分からず困ったのを覚えている。子供の頃デザインに関して父から教わったことはなかったが、絵を描くのが得意だったから、高校生になる頃には美術大学に進学したいと考えるようになった。

美術予備校で受験勉強を始めた頃、予備校近くのTSUTAYAで『アイデア』という雑誌に出会った。当時の沖縄には大型書店がなかったため、那覇市おもろまちのTSUTAYAは、最新のカルチャーに興味津々の自分にとって聖地と言える場所だった。

その雑誌はイタリアのグラフィックデザイナー、マックス・フーバーを特集していて、文字と図形と写真が大胆にコラージュされたデザインに強く惹かれた。「これだ」と思い、グラフィックデザイナーを目指すことに決めた。

多摩美術大学に入学することになり、上京した私は周囲のレベルに圧倒されて絵を描くのが億劫になってしまった。

井から出た蛙のように自信を失っていた時、友人ととあるポスター展を見にいった。友人はポスターの絵の部分に注目していたが、一方で私は文字の部分に注目していることに気づいた。文字を主役にしたデザインなら、何かできそうだと思った。

ある時期の『アイデア』は、タイポグラフィの分野で功績を残した先人を積極的に取り上げていた。ヤン・チヒョルト、ウィム・クロウェル、エミール・ルーダー。こうした面々に憧れ、次第に『アイデア』の紙面デザイン自体に魅力を感じるようになり、白井敬尚さんの作風を真似て大学の課題に取り組むことになる。

小林章さんの著書をはじめ、様々なタイポグラフィの専門書を読み漁った。タイポグラフィには何か厳密なルールがあり、それを理解していないと恥をかくのではないかと不安になった。私が通っていた当時のグラフィックデザイン学科には文字や組版に詳しい教授は見当たらず、大学に通っているのに独学しているという不思議な状態だった。

岡本一宣デザイン事務所のこと

多摩グラ(私たちはグラフと呼んでいた)は広告業界のスターを多数輩出していて、大貫卓也さんや佐藤可士和さんがその代表である。

おそらくその影響で、電通・博報堂に就職した奴が優勝、みたいな空気だった。絵を諦めてタイポグラフィの分野にのめりこんだ私は、多摩グラの王道から外れた自覚があり、就活の時期になってものんびり過ごしていた。

そろそろちゃんとしようと思い始めた頃に岡本一宣デザイン事務所(以下、岡デ)の求人を見つけ、応募した。他のデザイン事務所よりも文字の扱い方にキレがあるように感じたからだ。

面接で「武蔵美っぽいね」と言われて、武蔵美に行けばもっと馴染めたのかなと思った。好きなビートルズのアルバムを聞かれたので、「リボルバー」と答えた。帰りに表参道のドトールでお茶を飲んでいたら、採用の電話がかかってきた。

岡デではおもに雑誌の仕事をしていた。『TOTO通信』(TOTO)『アスクルカタログ』(ASKUL)『REDAN』(講談社BC)『趣味の園芸』(NHK出版)『TV Station』(ダイヤモンド社)などのデザインに携わった(すべて岡本一宣によるアートディレクション。かつ、複数のデザイナーとの共同作業だった。私がひとりで担当したみたいな誤解のないように、念の為)。

まれに雑誌以外の仕事を依頼されることもあり、PiT(トンボ鉛筆)のロゴを作った。川崎駅地下の商業施設「アゼリア」や茨城県の「ザ・ロイヤルゴルフクラブ」がオープンする際には、印刷物に限らず様々なアイテムをデザインした。岡本さんが「ウチはファクトリーだから」と自著で語っているように、作って作って作りまくった。

毎日終電まで働いていたし、タクシーで帰ることもしばしばだった。それでも学生の頃から熱中していたタイポグラフィの勉強は続けていて、お気に入りの書籍の組版を再現するために、InDesignの文字組アキ量設定(おもに記号の前後のアキを調整するための設定を行うツールで、組版にこだわるなら避けて通れないもの)を仕事終わりから明け方までいじっていた。

ゴルフ雑誌『REDAN』の連載ページでは、欧文書体Trajanが使われていた。この書体には小文字がないので、URLが別の書体で組まれていることに気づいた。私はそのページの担当ではなかったけど、URLだけ書体が違うのがどうしても気になったから、Trajanに合わせるための小文字をaからzまで作った。もちろん、勤務時間外に。ブランディングのために書体を開発する事例はよく聞くけど、URLを組むためだけに書体を作るのは稀だと思う。

このように、合理性からかけ離れたことを平気でやっていたから、入社3年目を迎える頃には随分疲弊していた。けれど、もっとタイポグラフィを知りたいし、納得のいくものが作りたいという欲求は尽きなかった。

日本デザインセンターのこと

近年、デザインがますますビジネスと密着していくなかで、デザイナーにも論理的思考力や言語化能力が求められている。その一方、岡デでは昔ながらの腕力と感覚によるデザインが行われていて、このままで良いのだろうかと葛藤していた。私はもっとコンセプチュアルで、領域を問わないものづくりを求めて、丸3年勤めたのち転職することにした。

意味や言語よりもニュアンスを優先する環境に疑問を持っていた私にとって、有馬トモユキさんの著書『いいデザイナーは、見ためのよさから考えない』(星海社新書)は救いだった。形に必然性を持たせるデザインの仕方や、理論を丁寧に言語化しようとする姿勢は、まさに当時の私が求めていたものだった。

有馬さんが所属しているという日本デザインセンター(以下、NDC)がどのように組織されているのか理解していなかった私は、ちょうどその頃求人を出していた日本デザインセンター 色部デザイン研究所に応募した。絵よりも文字が際立つシンプルな作風だから、自分も違和感なく馴染めそうだと思った。

NDCの中途採用は基本的に契約社員からのスタートになるのだけど、入社後すぐに担当したnendoの分厚い作品集の仕事を評価されたのか、すぐに正社員になれた。社長である原研哉さんとの最終面接のあと、人事部の人から「君、緊張とかしないの?」とからかわれたが、実際はそれなりに緊張していた気がする。

色部デザイン研究所での仕事は、そのほとんどがアートディレクター(AD)と担当デザイナーのペアで行われていて、初めの頃、エディトリアル畑出身の私にはブックデザインを割り振られることが多かった。次第に、ロゴ、サイン計画、展覧会のデザイン、パッケージデザインなど、幅広いジャンルの仕事を担当するようになった。

下記は、NDC在籍時に担当した仕事の一部である。

カシワバラグループのVI市谷の杜 本と活字館のVI・サイン北上市保健・子育て支援複合施設 hoKkoのVI・サイン『VISUALIZE 60』(誠文堂新光社)のブックデザイン『nendo』『nendo 2016–2021』(Phaidon)のブックデザイン など。

nendoの作品集をデザインした時は、「イリュージョンのある本にしたい」という版元からのリクエストに応じて、小口にグラデーションの印刷を施した。

その方向でデザインを進めていると、「写真を紙面いっぱいにレイアウトすると、小口に線が出てしまうよね」とADである色部義昭さんに指摘されて目から鱗が落ちた。小口に線が出るとグラデーションの邪魔になるかもしれない。

結局、本文のレイアウトの見え方を優先させるために線は出てしまったが、そのようにして小口の処理に気を配るのは建築的だと思った。一つの分野にとどまらず、領域を横断して仕事をしているからこそ持てる視点だ。

私が勤務していたフロアには他の部署のデスクもあって、特に三澤遥さんとそのスタッフの皆さんの存在は刺激的だった。三澤さんたちのデスクにはいつも木材や紙、見たことのない不思議な装置が転がっていて、まるで大人の図画工作のようだった。デザインの検証をしているというよりも、未知の実験をしているように見えた。

タイポグラフィの表現って、知識を前提に楽しむものが多い。誰も知らないマニアックな書体を使ってみるとか、型破りな組み方をしてみるとか。スタンダードを知っていないと、どこに面白みがあるのかわからないこともある。

一方で、三澤さんが作り出すものには、大人でも子どもでも外国人でも、もしかすると縄文時代の人がみても分かるような、言語や知識を必要としない面白みがあるのだと思う。その裏側にマニアックなテクニックがあるのだけど、私たちには見えないように巧みに隠されている。

岡デにいた頃から、30歳までには独立したいと考えていた。父の影響からデザイナーはいずれ独立するものと思っていたし、矢面に立ってクライアントと向き合いたかったから。しかし当時は人手不足で他のスタッフも疲弊していて、しばらく辞めるわけにはいかないと気を遣っていた。

任される仕事の量が増えていく中で、入社3年目の年末年始は一日も休むことができなかった。Slackを開くたび自分の名前にだけ緑色の丸が点いているのを見て、なんだかアホらしくなった。これがきっかけとなり独立することを決心した。

コピーライターの照井晶博さんには、東京コピーライターズクラブのお仕事でお世話になった。デザインを担当した『コピー年鑑2020』(宣伝会議)が校了した時に独立する旨を伝えたら、打ち上げを開いてくれた。会場は銀座の「ひらやま」だった。後日、「ひらやまは日本一のステーキ屋さんから独立した人が作ったお店なんです」と教えてくれた。こういう大人になりたいと思った。 

noteのこと

独立してからのことを書いて本稿を締めたいと思うのだけど、その前に、コロナ全盛の時期に始めたnoteに触れておきたい。

最初の緊急事態宣言が発令された時、就職して以来ずっと働き詰めの自分は、まるで時が止まったように感じた。せっかくだし何か新しいことを始めようと思って、タイポグラフィについて考えていることを文章にすることにした。

noteを始めた当時勤めていたNDCにはライブラリーがあり、原さんが選書をしていた。壁に貼られた小さな紙には選書の基準が記載されていて、中でも「答えが書いてある本は置かない」という項目に感銘を受けた。タイポグラフィに関するTips的な内容を発信することも考えたけど、多くの人に、じんわりと影響するようなことを発信したいと思ったから、これまでに書いたような文体になった。

学生時代の項でも触れたけれど、タイポグラフィに関心を持つ人たちの間には、なんとなく息苦しい空気感があるように思う。NDCにインターンに来ていたフランスの学生も、「タイポグラフィはルールが色々あって難しそうだから苦手」と言っていた。

10年間実践を続けてきた中で感じたのは、タイポグラフィには、絶対に守らなければならないルールなんてない、ということだ。

確かに、ある程度は慣例に従う必要がある。見慣れたものは認識しやすいから。しかし、タイポグラフィの役割は様々なメッセージをそれに見合った形で伝えることにある。状況に応じた解決策を柔軟に考えなくてはならない。無意識に慣例に従ってはいけない。そういう考え方をこれまで発信してきたつもりだ。

note に発表する文章は、「自分が学生の時に読みたかった文章を書く」というテーマで書いていたのだけど、学生のみならず、書体デザイナーの大曲都市さん、歌人の枡野浩一さん、文筆家の岡田育さんなど、各分野で活躍されている方に反応をいただいた。答えを示さないことで、様々な人が自由に解釈する余地のある内容になったのかなと思う。

下記はおすすめの記事。

独立してからのこと

独立した時に、これまでに作ったものをまとめて文庫サイズのポートフォリオにした。普通はPDFにまとめるか、ウェブサイトを作るところだが、流行り病の影響で実体のないコミュニケーションが溢れている時だったから、本にした。せっかくなら多くの人の手に届けようと思って、Twitter(現X)で希望者を募って無料で配った。これをきっかけに出会いに恵まれ、いくつかのお仕事をいただいた。

独立して以降のことは、うまくいったこともそうでないことも全て己の責任になるのがいい。一方で、当初ストレスに感じたのはお金のことだった。

見積もりから制作まですべて自分で行うのは想像以上に難しく、これまでにはない葛藤が生まれた。この仕事の報酬はXX万円だから、XX万円分の労力で済ませたほうがいいのでは? と。しかしそのやり方で納得のいくものが作れるのだろうか? その10倍の報酬を受け取ったとして、10倍良いものが作れるのか? と。

今では、引き受けた以上は1万円でも、10万円でも、100万円でも、100万円の熱量でやる。という考えに至り、吹っ切れている。そのきっかけは2023年のワールド・ベースボール・クラシックだ。躍動する日本代表の選手達を見て、くよくよしている暇があるなら全力でデザインに打ち込もうと思った。

もちろん報酬は高いに越したことはないけれど、やると決めたなら腹を括るということだ。

やりたい仕事

「どんな仕事がしたいですか?」とよく聞かれる。したくない仕事はすぐに浮かぶ。インパクトだけを狙った中身のない表現は苦手だなぁ、とか、過剰な装飾を求められると困るなぁ、とか。けれど、どういう仕事をしたいのか、独立したばかりの頃はイメージできていなかった。

岐阜県で金属の研磨加工を行っている株式会社美光技研のお仕事では、ロゴとウェブサイトのリニューアルを担当した。私が中学生の頃に愛用していたPlay Station Portable(PSP)本体の金属部分も、美光技研の仕事だと知って嬉しかった。

岐阜の工場を訪ね、実際の研磨作業を見せてもらい、精密な機械の動きや工場に響き渡る音、そして働く人たちの表情を見た。社長や若いスタッフの方から話を伺う中で、彼らが仕事に注ぐ情熱や、50年以上続く企業の歴史の重みに触れることができた。

お話を聞いて、「この人たちのために最高のデザインをしなくては」と思った。ロゴ制作を始める前に、「そもそも、なぜロゴが必要なのか?」「良いロゴとは何か?」といった根本的なことについて、クライアントと意見を交わしながら制作を進めた。この経験を通じて、リスペクトできる相手と仕事をしたいと考えるようになったし、そんな相手からリスペクトしてもらえるような仕事をしようと思った。

屋号

2024年に独立3周年を迎え、屋号を「1Q design studio」とした。「1Q(いちきゅう)」は、エディトリアルデザインの現場で用いられる文字サイズの単位「Q(級)」に由来している。1Qは、1mmを1/4(Quarter)に分割した0.25mmのことを指す。

多摩グラ、岡デ、NDCと環境を変えていくなかで、タイポグラフィやエディトリアルデザインから、ロゴ、ウェブ、映像、空間のデザインに広がっていった。これから更にデザインの分野が広がっていくかもしれないけれど、その根底には常にタイポグラフィがある。

グラフィックデザインにおいて、タイポグラフィは地盤だと考えている。「タイポグラフィは、突き詰めるほど見た人に気づかれなくなるもの」って、誰の言葉か忘れてしまったけれど、学生時代から肝に銘じてきたし、あからさまにタイポグラフィにこだわっている感のあるデザインをしないように心がけている。

地盤は見えにくいものだからこそ、そこにタイポグラフィがあることを忘れないように、この名前にした。意味深な記号のようにも見え、タイポグラフィっぽさを強調しすぎない点も気に入っている。

あとがき

先日、新しい仕事の依頼があり、初対面の方とお会いした。その方は事前に私のウェブサイトやSNSをチェックしてくれたらしく、「40歳くらいの生真面目そうな人を想像していたので、ちょっと安心しました」と仰っていた。大阪で組版屋を営んでいる大石十三夫さんとお会いした時は「なんや、優男やないか!」と驚かれた。私のネット上のイメージは、実際と剥離しているようだ。

冒頭で述べたように、AI画像生成が広がる現在、私は「どんな人が、どんなことを考えてデザインしたのか」に興味があるから、自身のパーソナリティも伝わるようにしたいと思っている。その一環として、これまでの経歴と、その時々に考えていたことを文章にしてみた。

しかし、ここまで書いて改めて読み直してみると、やはり40歳くらいの人が書いていると思われるのでは? と心配になった。

実際の自分の印象を伝えるには、ポートレイトを載せればよいと思う。言葉では伝わりにくいことも、画なら一瞬で伝わる場合があるから。

ではなぜ載せていないのかというと、現在ダイエット中だから。あと5キロ痩せたら撮るつもりだ。なお本記事のサムネイルはAIで生成したもので、描写されている生真面目なデザイナー風の人物は実在しない。

荒井胤海 | 1Q design studio
アートディレクター・グラフィックデザイナー。1992年沖縄生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン学科を卒業後、有限会社岡本一宣デザイン事務所、株式会社日本デザインセンターを経て、2021年独立。自分とは異なる視点や価値観を手がかりとした制作を心がけている。2023年より東北芸術工科大学非常勤講師。

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