それでもなお、それでもなお

 先日、ようやく宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』を観に行った。なんだかんだ初日に観に行っておらず、いわゆる「ネタバレ」的なスペースも聴き、なんか宣伝がカへッカへッと言い出していたけどまあ別に気にしておらず、「自分はジブリにあまり思い入れが無いのかもしれない」と思っていた。
 結果として、他の映画の「予告編」を眺めている最中にアレコレと思いを馳せることとなった。最も衝撃を受けたのは『ミュータント・タートルズ ミュータントパニック!』の予告編で、「予想以上に手数の多い手法を駆使しているっぽいアニメーション映画なのでは、凄そう」と感心してしまった。
 閑話休題。
 様々な予告編が流れる中、当然のようにディズニーの新作もあり、ヒロインは魔法の力で空を飛んでいた。しかし、宮崎駿の監督作品の登場人物たちはあくまで「滑空」する。宮崎駿の世界は、魔法の有無は問わず、重力が確固としている世界であって、もちろん落下のサスペンスも発生する。『君たちはどう生きるか』においても、眞人たちはあたかも『ジュマンジ』の一場面のように塔の中へと沈み込んでいく。
 『君たちはどう生きるか』におけるファンタジー世界は、半ば「無意識」のアレゴリーとして解釈可能であろう。何なら、「宮崎駿」自身のアニメーション受容史の換喩と捉えても良いのかもしれない。私は、バターが過剰に塗りたくられたパンを見て、『アルプスの少女ハイジ』における「溶けるチーズ」を思い出してしまい、胸が詰まってしまった。「水」の横溢するファンタジー世界は「死」と「生」の交じる場として描かれているが、複数のアニメーションの記憶が行き交う場にもなっている。(作画における本田雄と井上俊之の貢献もあり、図らずも今敏監督作品の『千年女優』を彷彿とさせる瞬間があった気もする。)
 モデル探しのような解釈は一旦封じたうえで、それでもなお語り部としての「宮崎駿」を画面の中に見出そうとするならば、アオサギの滑稽さと隠し切れないずっこけたようなヒロイズムに目を向けざるを得ない。眞人のために見張りのインコを誘導し、転げ落ちつつも「滑空」していく姿は、どこか『紅の豚』におけるスリリングな飛翔とダブって見えた。最後にアオサギは「ファンタジー世界」における一連の体験の重要性を眞人に告げ、去っていく。眞人の顛末を辿る本編の終わり方が異様にあっさりとしているのに比べて、この場面は背景を黒バックにし、あたかも舞台のように「観客」の前に差し出される。アオサギは確かに「私たち」に何かを伝えて去っていった。映画『君たちはどう生きるか』の世界では生と死がせめぎ合い、時は移ろう。それでもなお、アオサギは去りゆくのみだ。そして、まだ死なずにどこかで飛んでいるだろう。

 
 
 

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