りんごとネジから考える写真@アヴァンガルド勃興 その3
『アヴァンガルド勃興 近代日本の前衛写真展』(東京都写真美術館 2022.5.20-8.21)
3つの記事に分けて、上記の展覧会で感じたことをまとめます。
その1:「Podcastで白鳥さんのように鑑賞してみたい」
その2:「空間・モノクロ・題名・被写体が好き」
その3:「りんごとネジから考える写真」
実在と架空
これを読んだ時、『ふたつのまどか―コレクション×5人の作家たち』展のインタビューにて、福田尚代さんがおっしゃっていたことを思い出しました。
ずっとこのお話が頭のなかに残っていて、でも解釈しきれずにいたのですが、今回、小石さんのおっしゃっているマン・レイのねじと、福田さんがおっしゃっているジョゼフ・コーネルの子猫が私の中でつながり、その2つが同じ存在のように感じられました。
とはいえ、ねじと子猫の存在について、まだしっくりとくる説明には辿り着けていません。
ねじと子猫が、狭い画面に遊びをつくっているような…
別世界との境界にあるもののような…
『千と千尋の神隠し』で千尋がゼニーバにもらった髪留め、いや『インセプション』のコマ…、21世紀から来たドラえもん…
下郷羊雄さんは『メセム属』(超現実主義写真集)の最初の写真(下)について、
とおっしゃっていて、それが私の抱いているねじと子猫の存在のイメージにいちばん近いかもしれません。
ちなみにこの『メセム属』は、『瑛九、下郷羊雄・レンズのアヴァンギャルド <コレクション・日本シュールレアリスム 14>』という本に掲載されています。(都内だと3ヶ所の図書館に所蔵がありました。)
さて、2作品で決定的に違う点は表現手段です。一方は写真で、もう一方は絵/コラージュです。
りんごもねじも実在しますが、この女の子と子猫は実在しません。幻想的、非現実的であっても、架空ではないと感じられること、そして写っているものと同じ世界に自分がいると思えること、それが写真の重要な役割のように感じました。
そこで、思い出した写真があります。それは、フィリップ・ハルスマンが、ダリの《レダ・アトミカ》風に、絵を描いているダリを撮ろうとした写真です。
最初に本でみたときは完全に合成だと思ったので、アナログと知って大変驚きました。
この写真がどのように撮影されたかというと…
3回やり損なっての、この写真だそうです。
非現実的な場面を現実で再現してその瞬間を捉える ー 写真ならではの驚きがあり、撮影過程を想像する楽しさもあると思いました。そして、こんなことが実現できる世界に自分もいるということに、改めて感動しました。
「ぶれている」という言葉
りんごとねじから少し離れて、ある言葉から、写真について考えたいと思います。
その1でご紹介した「又吉直樹、目の見えない白鳥さんと写真美術館に行ってみた」のラジオ内にて、学芸員さんがこんなことをおっしゃっていました。
なるほど!「体の軸がぶれる」「方針がぶれる」というような使い方もありますが、視覚的にも一番わかりやすいのは写真のぶれですもんね。すごく面白いと思いました。
ということは、「ぶれている」というのは、写真特有のものなのでしょうか。ぶれているように見える絵画もありますが、それはそう見えるように描かれているのであって、実際にはぶれていません。
goo辞書を見てみると、
「写真をとる瞬間にカメラが動く」とはっきり書いてありました。(後日、他の辞書でも調べてみたいと思います。)
写真がぶれるということを、これまで私はネガティブな意味で捉えていました。でも、「ぶれる」が写真特有のものと思うと、急に魅力的な特性に感じてきました。言葉って面白いですね。
まとめ
最後に、東京都写真美術館の学芸員さんがおっしゃっていたことと、瀧口修造の言葉をご紹介して終わりたいと思います。
おまけ
実は写真の光沢があまり好きではなくて、現像するときは光沢なしを選択することが多々あります。今回、図録を購入して度々見返していると、現地で見た写真の光沢感が恋しくなっている自分がいました。またぜひ、生の写真の展示を観に行きたいです。(前期の展示を観に行かなかったことが悔やまれます…!)
以上です。