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私のこと、今までのこと

最初に。
これは私の頭の中の整頓で書いている。
私は普通じゃない。この記事にも割と重めのことが書いてある。
苦手な人は読まないで。

私は、生まれてから、何不自由なく健康に育った。
小学生までは。
元気で活発でちょっと気が強くて、運動が好きで。
今とは正反対じゃないか、みたいな性格のちょっと変わった女の子。
小学4年から始まった中学受験支度からちょっとずつ変わっていった。
勉強は嫌いじゃなかったけど、塾、という場所に通い始めてから、教室という場所が苦手になり、優劣をつけられることがコンプレックスになった。
今考えればもともと褒めてもらうことが少なかったけど、もっと褒められなくなったから。

その後無事、中高一貫の志望校には合格した訳だけれど。
そこで私は、場違いなところに来てしまったとやっと気がついた。
集団行動が苦手なことに、勉強が前よりずっと苦になったことに、品の違いを感じて肩身が狭いことに、電車通学など向いていないことに。
そして私は、不登校になった。
びっくりした。
ある日、なんとなく教室が苦手だと先生に打ち明けたその翌日に、いつものように身支度をして玄関から出ようとした。
出られなかった。ドアをどうしても開けられなかった。
母と父は言った。
「みんなしんどいんだから」
今でもこのワードは、私の中にずっと重く沈殿している。

自律神経失調症でしょうね。
最初に医者から言われた言葉はこれだった。
冷たくて薄暗い病院の中を看護師さんの後をついて回って、散々調べられてから。
ストレスかなにかでしょう。
よく覚えている。私の住んでいた地域では珍しく、雪が3cmくらい積もった冬の日だった。
「心配ないからもう大丈夫だ」
父は言った。
大丈夫かどうか、それは他人に決められることではない。
その時の私は、間違いなく大丈夫じゃなかったし、大丈夫だ、という言葉で余計に焦った。
大丈夫なのにどうして毎朝学校にいけないのか。
大丈夫なのにどうして電車で恐怖を感じるのか。
大丈夫なのに、どうして腕を切ってしまったんだろう。

一つ救いだったのは、久しぶりになんとか登校した学校でスクールカウンセラーさんに出会った事だった。
そこで初めて、心療内科、という言葉を知った。
そこなら学校に行けないこの状況を詳しく診てもらえるらしい。
この大丈夫じゃない状況が所謂、心の病というやつ、だということは薄々気が付いていたけれど。
それを診てもらえる病院があるとは、当時の私には目から鱗だった。
そして地域で有名だと教えてもらった心療内科を受診することとなる。
すぐに診断書が出て、学校を休校できることになった。
魔法みたいだった。
大丈夫じゃない、ことが認められたようだ。ぼんやり思った。

当時の診断で私はかなり悪い状況だったらしい。
躁うつ病の統合失調症疑い。
そういえば死にたい、とか初めて思ったし。
実際に死のうとする行動を起こすことも初めてだった。
両親はただただどうして、と思ったんじゃないかな。本当に申し訳ない。

そこから今に至るまでずっと、私の長い闘病生活は続いている。

大丈夫じゃない、状態は薬で良くなるらしかった。
実際に、良くなった時期もあった。
それは所謂躁うつ病においての、躁、の状態であったのかもしれないけど。
でもまた悪くなって、記憶を飛ばすくらいしんどくなった時の後には、腕は切り傷だらけだったし、大量服薬でふわっふわの状態だったりした。
この頃に私はパソコンに触れ、文章や絵を始めた。
ネットの世界を知った。
(それが良くも悪くも私の人生に影響を及ぼしていることはまた違う時に書こうと思う)

休学が明け、このままだと高校に上がれないことが判明して必死で登校した中学3年の春に、私は学校で風邪薬の大量服薬をやらかし、病院に搬送された。
それでも高校に上がりたかった。無茶だとわかっていなかった。
ほぼ全てが苦手だったその学校の聖堂が好きでそこにいたかった。
結局、なんとか高校に上がれても息苦しい生活は続き、私はその学校を離れることになる。
あの聖堂に、また行きたいのだけれど。もう行けないかもしれないな。

翌年、父がある学校のパンフレットを持ってきた。
県内唯一の、所謂定時制高校。市立だ。
再びの受験。
でも前よりは前向きだったし、合格発表の表に私の受験番号があった時はたぶん中学受験のときより嬉しかったと思う。
ていうか、人生の中でもかなり嬉しかった出来事の一つだ。
みんな何かしらを抱えている。
それぞれになんとなく、生きづらさを理解できる。
そんな仲間に囲まれている環境は、前よりずっと居やすい場所だった。
先生は高圧的じゃないし、好きな授業にだけ出ることができる。
冷暖房設備のない学校は夏は暑くて冬は底冷えする。
けれど、夏、緑のカーテンの隙間から漏れた光がぽつぽつと差す人の少ない廊下だとか、冬に震えながらエントランスで話すのが好きだった。

この時、私は通学、が苦手なのだと気づき始めた。
電車で通学、それが鬼門なのだ。昼間に乗る電車は嫌いではなかったけれど、たぶんそういう所では補いきれない苦手ななにかがあったのだと思う。
それは実は、今でもわかってない。

結局、そんなわけで高校もギリギリで卒業することになる。
成績は悪くない、けど、出席日数が圧倒的に足りない。
高卒認定試験を受けて、やっとだ。

進路、私は大学って、センター試験を受けなければ行けないものだと思っていた。(そんなことないのにね、あの頃の無知な私に、誰か教えてやってくれ)
だから、専門学校へ行くことを選んだ。
色々オープンキャンパスへ行って、声優の学校だったり、もちろんアートの学校だったり。
でも私に声優としてやっていく体力や精神力はないと判断、アートは嫌いになりたくなくてやめた。
一種の逃げだったかも。
結局選んだのは、栄養士の専門学校だった。

再びの電車通学。
しかも前とは比べ物にならないくらい、人の多い路線。乗り換えもあった。
高校よりもずっと出席日数に厳しい。
毎日、朝から夕方遅くまで授業がみっちり詰まっている。
街を探検するのは楽しかったけれど、案の定、私の身体は悲鳴を上げた。
まあ、他にも理由はあったけど。
1年の休学をはさみ、復帰。3年目、良い友人にも恵まれてもう留年はできまいぞ、と必死になって頑張った。
人生のうちで一番勉強したと思う。何回もいうけど、勉強は嫌いでなかったから。
いつも通り、なんとか、なんとか卒業をして…でも調理学校へ進む元気はもう残っていなかった。
私の最終学歴、専門学校卒。
得たもの、栄養士免許。私が持っている、唯一の資格だ。

その後、アルバイトや就労支援施設を転々とし(どれも本当に長続きしなかった)
働けない、とまた薄々気づいた私は絶望しはじめていた。
働けない人間に果たして、生きている資格はあるのだろうか。

精神科医の先生(私の最悪の時代をずっと見てきた)は大丈夫、前より良くなっているよ。
そう言ってくれたけど、私にはどうしてもそう思えなかった。
それを自分でうまく伝える能力もなかった。
ずっと、生きていてはいけない人間だと私は思い続けていた。
そんな時、今のパートナーに出会った。

今までの人生において恋愛でも色々あったが、献身的に私を支えてくれた大事な彼氏を振って、私はパートナーを選んだ。
彼には本当に申し訳ないと思っている。
でも、今でも連絡を取り合う仲だ。
そんなわけで、私は今のパートナーと暮らすために生まれ育った土地からパートナーが住む土地へ引っ越した。
前に住んでいたところより田舎だ。駅までも遠い。
電車の本数は少ない。
車の免許がない私はパートナーが居ないと遠くへも中々行けない。
けど、前住んでいた所よりは過ごしやすい気がしている。
空が広い。
星が沢山見える。そんな些細なことが、私には幸せだと思えた。

そして今。やっと今になって。
私は、自然死することを決めた。つい最近のこと。
今まで何度も自分で死のうとした。でも、自分で命を断つことを選ぶのではなく、そうなりそうな時は自制できるように。
神様がなんらかの形で私を死に導くまで。生きることに。

私は今でも手探りの生き方をしている。
外で働けないことをやっっと自覚し、そんな自分を受け入れて、怖がっていたイラストとちゃんと向き合いはじめた。
人より努力もできない。
人より心が強くない。
人よりストレスに弱い。
無理をするとすぐ身体を壊してしまう。
正直、イラストレーターに向いているかもわからない。
上手い人は本当に沢山いる。厳しい世界だと思う。
またこれから沢山悩んで、しんどくなることは間違いない。
けど、お金がないと生活できない、と絶望してまた死のうとするよりは多分マシだ。

ちなみに、今でも私は精神科にかかっている。
先生との相性はいい。
褒めてくれる。上出来、って。素敵な言い回しだ。

最初の注意書きをすっ飛ばしてこれを読んだあなたが私のことをどう思おうが私は大丈夫。これがありのままの私なので。
これは頭の整頓。誰に読まれてもいい。
しんどかったーこれ書くのも。
でも書き出してよかった。なんかすっきりしました。
今日はよく晴れてる。
無理はしないでできることをやります。

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