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インタビュー調査<伊神孝信氏>

 1946年3月6日中国満州の奉天(瀋陽)生まれの伊神孝信氏は、満州から引き揚げ、愛知県江南市で幼少期を過ごす。滝実業高校を卒業した後、南山大学経済学部に入学。学生時代は柔道部に所属し、文武両道を実現した。新聞の閲読や読書、執筆に興味があったことから、将来はそれなりの作家になることを志し、まずは新聞記者になって、世の中のことを伝えようと考えた。難関就職試験の狭き門を突破し、1968年に中日新聞社に入社する。
 入社後は販売店実習や中日スポーツ総局の整理、校閲を経て松本支局へ配属。登山の遭難取材やサツ回りで鍛えられると同時に、地方版の影響力の大きさに驚いた。1972年には志摩通信部兼伊勢支局に配属され、通信部では妻の伊神たつ江氏と二人で仕事をこなす。その後は岐阜総局、名古屋社会部と異動し、三億円強奪事件取材を担当。連日歩き回り、犯人の正体を突き止めたという。
 1979年には航空部がある小牧通信局長に就任。災害や大事件が起きる都度、取材用のジェットやヘリで現地まで足を運び「現場百回」の精神を培った。「何よりも現場を自分の目で見たい」と語り、長崎大水害、大韓航空機撃墜事件、中部日本海地震、長野富山連続女性誘拐殺人など多くの現場取材を体験した。
 1986年七尾支局長となり、和倉温泉の三尺玉花火存続への貢献や「海の詩(うた)」大賞の創設などで、七尾市民から親しまれた。また、自身初の著書『泣かんとこ 風記者ごん!』を出版する。1993年大垣支局長となり、可児市のバラ園であった花フェスタでは自らオランダに飛び、カーネーションとアルストロメリア各一万本を来場者に贈った。1996年大津支局長となり、滋賀県下の全記者に呼びかけ、『野に咲く湖国の花』を出版。他にも、小学生を対象とした「湖(うみ)の子 詩(うた)の旅」企画記事の連載やお悔やみ欄の創設など様々な活動を展開した。ブロック紙記者として、「その地域の人と一緒に、泣き、叫び、共になってやってくっていうのは非常に良かった」と振り返る。
 2005年の退職後は中日ドラゴンズ公式ファンクラブの一人のスタッフとして会報を編集する一方、個人的にはウエブ文学同人誌「熱砂」主宰として執筆を継続して行う。『中日新聞』の社是である「真実・公正・進歩的」が常に念頭にあったと言い、「今度、新聞記者やれというならやはり『中日』だね」と語った。

主担当:河田