土屋礼子ゼミ@早稲田政経
土屋ゼミ11期生のゼミジャーナルの記事をまとめています。
土屋ゼミでは「ジャーナリスト・メディア関係者個人史聞き取り調査プロジェクト」という活動を行っています。第十一回目の2023年度では、ブロック紙記者OBの方々にインタビューをお願いしました。ブロック紙記者としてどのような仕事に携わられたのか、ブロック紙記者として日本のジャーナリズムやメディアについてどう考えてきたのかなどを中心にお話を伺い、ライフヒストリー(個人史)として記録するプロジェクトをすすめました。 このマガジンでは、11期生が担当したインタビュー要旨を投稿していきます。
土屋ゼミ10期生が取材・執筆した記事をまとめています!
土屋ゼミでは「ジャーナリスト・メディア関係者個人史聞き取り調査プロジェクト」という活動を行っています。記念すべき十回目の2022年度では、地方紙記者OBの方々にインタビューをお願いしました。地方紙記者としてどのような仕事に携わられたのか、地方紙記者として日本のジャーナリズムやメディアについてどう考えてきたのかなどを中心にお話を伺い、ライフヒストリー(個人史)として記録するプロジェクトをすすめました。 このマガジンでは、10期生が担当したインタビュー要旨を投稿していきます。
土屋ゼミ9期生によるゼミジャーナルをまとめています。
●第一期:(2012年1月提出) ・太田龍之介「ジャーナリズムと公共圏」 ・加藤寛貴「むのたけじの歩み~もう一つのジャーナリズム史~」 ・上條彩「クライシス・コミュニケーション 何が成功と失敗を分けるのか -危機対応の「タブー」の論証」 ・唐渡健「政党メディア戦略の変化」 ・霜越岳「インターネットメディアが政治、選挙活動にもたらす影響と その日本国内における意義」 ・坪郷景介「チェルノブイリ原発事故を中心に原発報道・世論を検証する」 ・永田裕一朗「鹿児島県
【取材趣旨】 我々文系の学生は理系学生と同じ大学に所属しながらも、彼らが具体的にどのような学生生活を送っているのかについて深く知る機会は少ない。 よって、理系学生の学生生活からキャリアプランまで尋ねるインタビューを通して、彼らの学生生活を明らかにし文系学生との相違点も発見する。 今回は早稲田大学基幹理工学部機械科学・航空宇宙学科4年の谷田部敦裕さんにインタビューさせていただきました。 <谷田部敦裕氏 プロフィール> <インタビュー全文> 福岡:改めて、今回のインタビ
本文の前に あなたは今サークルに所属しているだろうか。 更に言えば、あなたはサークルの運営に携わったことがあるだろうか。 イエスと答える人は少ないだろう。けれどもサークルを運営することの大変さは想像に難くないはずだ。まして新しくサークルを設立し、運営を行う、などは言うまでもない。 今回私がインタビューを行ったのは、そんな苦難を乗り越えて設立4年目に至った新興サークルたちである。このインタビューを通して、サークル設立当時の苦労話や新興サークルならではの楽しさを知
早稲田大学は、授業やサークル、部活動といった多様な学生活動を行うことができる点が魅力の一つです。その中でもひと際目を引くのがパフォーマンスサークルの存在です。音楽、ダンス、演劇といった多彩なジャンルのパフォーマンスを通じて、各学生が自己表現の場を広げています。今回は、そんな活気に満ちたパフォーマンスサークルの代表にインタビューを行い、コロナ禍による苦難や、活動内容とその魅力、サークルに込める思いなどを伺いました。情熱をもって活動する彼らの声を通じて、早稲田大学の魅力を改めて
◉取材の目的 令和の時代、大学生は自身の将来に向かって、勉学のみならず、サークル活動やインターンシップ、課外活動など幅広い分野において、興味を深めている。特に自由な環境を持つ早稲田大学では、自身の興味に基づく活動に日々奮闘している学生が多い。そこで、私たちは積極的に活動を行う早稲田生は、「どのような想いを胸に学生生活を送っているのか」に迫る。今回は、早稲田大学での学生生活と並行して、芸能活動や起業活動を行なっている月奈なづきさんに、現在の生活や将来の展望についてのインタビ
玉川孝道氏は1940年に鹿児島県鹿児島市で生まれた。「鹿児島での暮らしの風景は焼け野原」だったという。鹿児島県立甲南高校を卒業、九州大学法学部に進学した。大学時代は60年安保闘争の真只中で、大学よりも三池闘争などの現場に通ったという。「生の現実を見る仕事」をしたいと新聞記者を志望し、1963年に西日本新聞社に入社する。 入社後は一年間の校閲部を経て、筑豊支局に配属された。頻発する炭鉱事故を取材し、引き取り手のいない鉱夫の遺体や鉱夫の家族を前にし、眼前の光景の執筆に悩み、「
1955年に名古屋で生まれた木村昭彦氏は、幼稚園児の頃に伊勢湾台風を経験している。1971年に東海高校へ進学。卒業後は一年間の浪人を経て慶應義塾大学経済学部に入学した。一、二年生の内は、授業は必要最低限でバイト・麻雀に打ち込む日々を送った。三、四年生になり、様々な授業をとっていく中で「世の中は変化する」という認識を持てるようになったという。 大学卒業後は中日新聞社に入社し、四年間の地方記者生活の後に本社の整理部に配属された。七年間にわたる整理部時代は本版のニュース面担当で
1937年生まれの児玉芳明氏は、1943年に石川県への縁故疎開を経験した。1944年の春には横浜へ戻り、そこで終戦を迎えた。関東学院高校時代から新聞づくりの活動をし、中央大学法学部に入学すると、『中央大学新聞』を作る新聞学会に所属し、砂川基地反対闘争などの安保闘争前段階の闘争を取材した。1959年大学を卒業、当時先進的だった北海道新聞社に入社した。この年にはちょうど『朝日』、『毎日』、『読売』が札幌で印刷を始め、『道新』ではそれを迎え撃つために新人が多数採用された。
1954年、水野泰志氏は名古屋に生まれた。地元の旭丘高校を経て、1974年に早稲田大学に入学する。元来政治に興味があり、どのようにして政治の世界に関わろうかと考え、政治記者を志し、馴染みのあった『中日新聞』の試験を受けた。 1979年に中日新聞社に入社、浜松支局へ配属。「先生は他社のベテラン記者」だったという。1980年に『東京新聞』整理部に異動。次いで名古屋本社整理部を経て、1985年に『東京新聞』政治部に異動。総理番や野党を担当した後、三年目に自民党清和会担当の派閥記
1948年、村田正敏氏は北海道の中標津町にて生まれる。人より牛が多いこの町で、村田氏は獣医の父の姿を見て育った。中標津高校を卒業後、東京での大学生活に憧れ、立教大学へと進学する。大学卒業後は、「地元に戻って社会に関わりたい」という思いから『道新』を志望した。 1971年に北海道新聞に入社、江別支局へ配属され、そこで全ての記者の基礎を学んだ。三人支局で紙面を埋めるために、「馬に食わせる位の原稿量」を書いたと言う。1975年に本社社会部に配属。最も印象深い事件となった北海道庁
1958年生まれの藤井通彦氏は、大分県の高校から早稲田大学政治経済学部を経て、1981年に西日本新聞社に入社した。寄本勝美ゼミで社会問題への意識と現場中心主義の考え方を培ったことが影響したという。 入社後は社会部に配属され、警察担当として忙しない日々を三年間過ごした。北九州支社に異動後は司法担当となり、在日韓国朝鮮人に対する指紋押捺反対運動の取材に携わる。それが韓国問題に関心を持つ大きな転機となった。四年後、本社文化部へ異動。「暮らし」を幅広く捉えて関心が強かった国際的テ
1950年に生まれた尾崎行雄氏は、早稲田大学社会科学部に入学。自治会役員をしながら学生運動に精を出した。『東京新聞』のアルバイトをしていた時に誘われて試験を受け、1977年27歳の時に入社。埼玉支局に配属され、デスクの指導を受けながら記事の書き方を覚えた。三年後、横浜支局へ異動、富士見産婦人科事件の取材を担当した。釣り船と潜水艦が衝突し20名が死亡したなだしお事件の取材も担当。あまりに緊迫した状況で、当時を「悪戦苦闘で、何やったか覚えてません」と振り返る。 1991年に北
井上能行氏は1955年に大分県別府市で生まれた。別府鶴見丘高校を卒業、京都大学理学部に進学し地質学を専攻した。化石を研究する亀井先生の薦めにより1977年に中日新聞社に入社する。 入社後は岐阜総局に配属された。新人研修中の取材が朝刊の社会面トップの記事となり、受賞した。その時の編集作業を見て、「編集局全体のスピードとセンスは凄い」と圧倒された。高山支局に移ると化石発掘のスクープ記事を担当。「社を超えて若い記者を育ててくれる。それが地方の良さ」として印象に残ったという。
1945年、名古屋に生まれた高島良樹氏は、慶應大学商学部を卒業後、中部日本新聞社に論説としてかかわっていた大学教授の祖父の影響を受けて中日新聞社に入社。 入社して最初の三ヶ月は新人研修を受け、実際に販売店実習も体験した。1969年に四日市支局に配属され、三年間駆け出し記者として過ごす。記者人生で最も印象に残っている取材の一つは、当時の高度経済成長期下での公害問題に真っ向から立ち向かった、海上保安部の田尻宗昭さんとの出会いであったと言う。工場排水による海の汚れを取り締まるた
田中一彦氏は1947年福岡県みやま市に生まれた。福岡県立修猷館高等学校を卒業し、1967年京都大学経済学部に入学。学生時代は学生運動が盛んだったが、本人はノンポリで本ばかり読んでいたという。 一年留年後、1972年に一度富士写真フイルムに入社したものの、会社の体制が合わず三ヶ月で退社。同年10月に京都大学文学部言語学科へ学士入学したが、翌年ちょうど記者を募集していた『西日本新聞』へ入社する。記事を書きたくて入ったつもりが、最初の六年間を整理部として過ごした当時のことを、田
徃住嘉文氏は1954年に北海道旭川市で生まれ、留萌市で幼少期を過ごす。中学時代にはベトナム戦争に関心を持ち、新聞記者を志し始める。また、職業軍人であった祖父や学生運動を間近で見た経験等から右左の思想に偏らない多様な感性を培う。北海道立札幌西高等学校を卒業後、二年の浪人を経て、北海道大学法学部に入学。卒業した1979年に北海道新聞社に入社する。 最初に旭川支社報道部に配属され、特オチの失敗を体験。自らの足でニュースを探し、地方版の記事を書いた。1981年根室支局に異動。19