見出し画像

【雑感】嫌いなことば

最近はあまり聞かない(というか聞かないようにしているのかもしれない…)が、私には聞くに堪えないことば(というか文)というのがある。

それは、
「それ、何の役に立つの?」
という一言。

学校でも
「あなたたちの将来に役立ててもらいたいから」とか
「将来のためなんだから」とか
「社会に出たら」とか
よく聞く。聞かないようにはしているけれど、いやでも耳に入ってくる。
もちろん、職場以外ではもっと耳にする。

ひとまず、学校教育に的を絞って話そうと思う。私は、そう言う人たちに、こう問いかけたい。

「そもそも、学校は、役立たないといけないんですか?」


学校は、卒業した後に役立てるためのものなのだろうか。学校自体に、何か目的みたいなものはないのか。

学校という、「今・ここ・私」にフォーカスを当ててみたらどうか?

今この瞬間は幸せか、ここに居場所はあるか、私は楽しんでいるか
「今・ここ・私」が、大事なんじゃないのか。
というか、それ抜きに、将来のことなんか、考えられるのだろうか。

将来の役に立ったら、それはそれで嬉しいけど、
私は、少なくとも私は、将来のことなんかほとんど予測できない。
今は、つまらん!と思ってやっていることが、将来面白くなったり、その逆だったりするのはよくあることで、
そもそも将来役に立つかどうかは、その将来になってみないと、そして本人じゃないと、判断ができないのだ。
それを、今の時点で、ましてや知らん大人たちが、勝手に価値づけするものではないのだ。

学校に行って、ことばを駆使してさまざまなことを学べる、
学んで楽しい、
仲間たちと学びについて共有できる
それらが、教育の最も大切なことではないのか?そしてそれは、
将来役に立つか立たないかとは、別物として考えるべきことだ。

学校では、将来に目がくらんだ大人たちが、
高卒資格を取ればあとから楽ができる。
理系科目をやっておけば大学入試でいろんな学校に対応できる。
留学経験を積んでおけばあとから役に立つ。
なんて言っている。
でもこれが善意だから問題なのだ。

こんな世の中、もうやめにしたい。

だからわたしは、「今・ここ・私」を大切にして、授業をデザインしたいと思っている。
しかしながら実はそれって逆にすごく難しい。そっか。将来役に立つって、楽なんだ。

などと考えていると、わからなくなってくる。
やっぱり学校は、「役に立つ」という軸で成り立っているのかもしれない。など。

そうだとしても、少なくとも私は「今・ここ・私」を大事にしたいし、周りの人にもそうであってほしいと思っている。


いいなと思ったら応援しよう!