ハワイ在住の原爆被爆者2世に会う

こんにちは。ハワイは昨日、真珠湾で銃撃があり3名(銃撃者を含む)が死亡するという痛ましい事件がありました。

よりによって、12月7日の真珠湾メモリアルデーを控えた場所で。撃たれたのは施設職員である民間人でした。

ハワイでこのように銃撃があり死者が出た事件は20年前、ゼロックスという企業で7人が犠牲となった事件以来です。

銃や暴力、安全保障(誰のための安全保障なのか)について等とても考えさせられる日々を送っています。

スティーブンさんは被爆2世

今日は、午前中、原爆被爆者2世である54歳の男性と会っていました。彼の名前はスティーブン。お父さんはローレンスさん。ローレンスさんは広島で被爆し、被爆手帳も取得しており、ハワイで証言活動を始めました。

ガンガンにクーラーの効いたファミレスに、彼は私を呼んでくれました。そしてスティーブンは、分厚い資料ファイル(10センチほどの厚み)を私に用意してくれていました。「すべて君のために用意したんだ」そう言って、それから3時間にわたり、5代前の彼の家族の話から始めました。

ひいひいおじいちゃんがハワイへ移民

彼はハワイ生まれの日系人。スティーブンのひいひいおじいちゃんは広島出身。さとうきび畑で働くために労働者としてハワイへやってきました。そして続いて彼のひいおじいちゃんもハワイへ。ハワイのさとうきびプランテーションでの労働はとても厳しく、多くの日系人が従事しましたが、その話についてはまた今度書くこととしましょう。オアフ島の「ハワイイプランテーションビレッジ」というところで、その頃の様子を学ぶことができます。

そして、ひいおじいちゃんとおじいちゃんは、プランテーションでの労働を経て、貿易ビジネスで成功しました。ホノルルの一等地にどでかいビルを持っているほどでした。日本とハワイ、そしてアメリカ本土を行き来しながら貿易のプロとして活躍をしていました。スティーブンのお父さんにあたるのが、ローレンスさん。おじいちゃんはビジネスのためにローレンスさんが2歳の時に家族みんなで広島へ引っ越し、横川駅のそばに大きな土地を持っていたのだそうです。

築いた富は戦争の始まりと共に崩れ去る

金銭的にも物質的にも豊かな暮らしを営んでいた彼の家族のその運命はその後、崩壊します。そのきっかけとなったのが、1941年12月7日。日本軍の真珠湾攻撃です。日本軍が真珠湾攻撃を行ったあとすぐ、ハワイ全土に厳戒令が敷かれます。そして、日系人の牧師や僧侶、神主、教師、ビジネスマン、医者等リーダー格の人は皆逮捕され、強制収容されました。このことについても、また詳しく書くとしましょう。「ハワイ日本文化センター」の常設展示「OKAGESAMADE」で詳しく学ぶことができます。

スティーブンのおじいさん、つまりローレンスさんのお父さんは、広島からハワイへ戻っていた時に真珠湾攻撃があり、逮捕されました。そして彼の持っていたホノルルの一等地とビルは、オークションにかけられ、売られてしまいました。もちろん、彼の許可なく。収容所での生活はとても苦しいものでした。そして、多くの日本人が、アメリカ本土とハワイに複数設けられた収容所を、あちらからこちらへ、そしてまたその次へ、と転々とさせられます。彼らの意思は問わずに。おじいさんも漏れなく、アメリカ本土へ送還されました。

戦況が悪化していくにつれ、日系人はたとえアメリカ国籍を持っていたとしても、アメリカへの忠誠心を試されました。日本人を殺す覚悟はあるのか?等と尋問も行われました。その中で立ち上がった志願兵たちがその後の100部隊、442部隊などとして、アメリカ軍の前線で闘い、多くの犠牲者を出し、そしてアメリカでもっとも多くの勲章を得ました。

戦禍の中、おじいさんはハワイから広島へ

おじいさんは40代で若くなかったので、兵士になることはできず、代わりに通訳として日本とアメリカとの連絡船に乗ることを志願しました。これは私も初めて知ったのですが、戦争中、すでにアメリカ(アメリカ領地を含む)に滞在している日本人の大使や外交官等を、すでに日本(日本領地を含む)に滞在しているアメリカ人の大使や外交官を、送還するための連絡船が出されたのだそうです。真珠湾から出港した船は、ハワイの日本人外交官たちを乗せ、アメリカ本土、南米、南アフリカ、インド等を経由して日本人を乗せた後、フィリピン等を経て日本に戻りアメリカ人の外交官を乗せてハワイへまた戻ったのだそう。(ちょっとまだソースが不明瞭ですが、彼の話によると、一人のアメリカ人と一人の日本人を交換するために、アメリカは南米で多くの日系人を誘拐し、その船に乗せていたのだとか。)

その船で日本にたどり着いたおじいさんは、広島の家族のもとに戻ることができたのですが、収容されていたことや逮捕されていたことは語らなかったのだそうです。

お父さんは広島で原爆を体験する

話は戻って、ローレンスさん(スティーブンさんのお父さん)はそんなおじいさん(ローレンスさんのお父さん)の話は知らず、14歳の少年でした。横川から広島大学附属中学校に通う優等生で、7月に市外へ疎開したために直接被爆はまぬがれました。8月6日、その日は広島市内へ行くはずだったのですが、前夜にわくわくしすぎて騒いだところ、先生に怒られて市内へ行くことを禁じられてしまったのだそう。だから助かったのですが。

ーそして彼の話は、ローレンスさんが見た原爆の様子にうつりました。朝、パラシュートが飛行機から落とされたあと、今までみた景色で一番美しい黄色い光に包まれた。家族を心配したが、8月15日、ようやく先生から解放され市内へ戻ったローレンスさんは、家族の住んでいた家が焼け野原となり跡形もなく、死体の転がった街を一人で歩きました。絶望と虚無感でいっぱいだったそうです。焼け跡に残された母親からの伝言をもとに、三田村をたずね、避難していた母と妹に会うことができたのだそう。

スティーブンさんは被爆2世

と、ここまで聞いたところで私はもういっぱいいっぱいになってしまいました。なぜかというと、彼はここまでの話を2時間以上に渡り、ノンストップで、早口の英語で、手元に一杯の地図や資料や写真を広げながら話し続けていたからです。あまりの情報の多さと、彼の熱量と(私は寒いと思ったクーラーも彼には効かなかったらしい)に圧倒され、完全にエネルギーを吸い取られてしまった。こんな人がハワイにいるんだということに驚いてしまって、何も言えなくなってしまいました。残りの1時間はいかにその物語を調べて来たかということを聞きました。

彼の語りはものすごく鮮明で、(彼は自分の家族のルーツを確かめるために広島にも来たことがある)10年に渡るリサーチを丸ごと頭に詰め込み、ものすごく臨場感を持って話すのです。「三篠」「横川」「相生橋」「附属中学校」等のワードは、さも彼が住んでいた場所かのように登場しました。彼はお父さんのローレンスさんに、いくつもの写真や被爆者の絵を見せ、どの光景が一番体験したものに近いかを徹底的に比較し、これだと言ったものを私達に見せていました。

そしてもっと驚くべきは、彼がローレンスさんの話を調べ始めたのは10年前のことで、それまでは原爆について、自分のルーツについて、何も知らなかったということです。彼は日本から戸籍を取り寄せ、家族の墓の場所を特定し、それからひいひいおじいちゃんが広島からハワイへ移民してきた時の記録を、膨大な移民者の名簿の中から手作業で見つけ出しました。

そしてさらにすごいのは、10年前、何があったのかというと、ローレンスさんが中学校の時に書いていた日記を発見したのです。突然に。ローレンスさんは、高校生の頃家族と一緒に広島からハワイへ来た後、もちろん英語も話せないのでとても苦労したのだそうです。勉強して勉強して勉強して、ハワイ大学に入り、ニューヨーク大学にも行き、銀行を立ち上げて88歳の今も現役の副頭取として働いています。その間ずっと、その日記はどこかに保管されていたのだと思うのですが、10年前、ローレンスさんは初めて日記を開いたのだそうです。

10年前までは何も語らなかったローレンスさんは、ほとんど広島にいた時の話なんて覚えていなくて何も話さなかったのに、その日記を読み進めるにつれて記憶がほどけ、スティーブンさんにぽつぽつと語り始めたのだそう。初めて語った時のメモも丁寧に保管されていました。

留まることなく話し続けるスティーブンさんは(3時間で水を一滴も飲まなかった)、分厚いすべての資料を説明し終えるとやっと一息つき、「で、質問ある?」と私に言いました。

不運の運命を確かめたかった。

なんでそんな熱量があるんですかと尋ねたかったのですが、尋ねるより先にまた彼は話し始めました。

僕は、小さい頃からずっと母親に「この家族は不運なんだ」と言われてきた。でも誰も理由を教えてくれなかった。だから僕は不運なんだとずっと思ってきた。この苗字である限りは不運なんだと思ってきたんだが、今は違う。調べて調べて調べつくして、僕は今、ここに生きていることが本当に幸運だと思う。ひいおじいちゃんも、おじいちゃんも、お父さんも、生き延びた。お父さんが原爆を生き延びて僕がいること、そして娘がいることは、最も幸運なことでしょ?小さい頃から肩にずっと重くのしかかっていた「不運なんだ」という呪縛から解き放たれたんだ。

私は、ハワイに来て、多くの日系人、オキナワン(この二つを分けることについても今度書くとして)は自分達のルーツにとても関心があることに驚いています。多くの人が、何世代も前の親族が日本のどの場所から来たのかを知っています。そして調べる努力もしています。例えばハワイオキナワセンターでは毎月第二土曜日に、戸籍を取り寄せたりする手続きを行う機会を用意していたりします。ルーツを解きほぐすことは、自分が生きていることの意味を解きほぐすことに繋がっているのだと感じることもあります。

僕たちは伝える

ハワイにいる、広島で被爆した人というのはローレンスさんを含めて今は5人いるとのこと。ハワイにも被爆者が検診を受けられる病院があり、定期的に診断に行ったこともあるのだとか。(でもあくまでも検診であり治療ではないのでやめたとか。)被爆2世であるスティーブンさんは、語気を強めて最後にこう言いました。

僕たちは、同じような境遇にある。被爆2世、3世だ。話を伝えていくことができる。これからも繋がっていきましょうね。

彼のお父さんローレンスさんには、来週お会いできる予定です。ローレンスさんと私がより焦点を絞った議論ができるように、お父さんを出来るだけ疲れさせないように、と彼は私のために膨大な資料を用意し、仕事の合間を縫って3時間をつくり、そして次のアポがあるから、と13時を回った頃、食事もとらずに駆けて行きました。

これが私がハワイで出会った被爆2世のスティーブンさんとの出会いです。