「熱海殺人事件」(佐藤滋とうさぎストライプ)を観た
ほぼ一年ぶりの舞台観劇だった。
あれだけ芝居好きを自認しておきながら、自分の仕事が卓球メディアに変わり、そして時を同じくしてコロナ感染拡大が始まると、まったく劇場に足を運ぶ気にならなかった。
現金なものだ。少し恥じる。
私のような、小心で社会の雰囲気に流されやすい観客が、これまでの小劇場演劇の客席のある部分を占めていたのだろうから、いま、小さな劇団の主催者が小劇場で芝居を打つという決心がどれほど果断なものかは想像に難くない。
その一年ぶりの観劇が、20年以上も前、青年団の入団試験を気張って受験しにいったアゴラ劇場だったことは、何かの縁だったのか。
久しぶりに座ったアゴラ劇場の客席は、座席数は間隔を空けて40〜50席程度で、皮肉なことに、シアターコクーンよりも客席の間隔は離れていて快適な座席だった。
(以降、わずかなネタバレ含みます)
「熱海殺人事件」だ。うさぎストライプの。
つかこうへい作品を“静かに”演じる。
その稽古場で観る他愛のない夢のようなものが、私には成功しているように見えた。
私が、そこまでのつか作品ファンでもなく、どちらかと言えばオリザ作品ファンであるからかもしれない。
つかこうへい作品にある終盤のカタルシスはもの足りない代わりに、いわゆる“つか風演出”ではこぼれ落ちることの多い、ひとつずつの台詞のニュアンスや、極端な台詞を吐くまでの役者の動機が、丁寧に設計されていた。
特に高畑こと美演じる片桐ハナ子は、なんというか、とても粒が細かく、なめらかだった。
つかが例えた“F1レース”で言うならば、今回の大池演出は速度を落とす代わりに、ハンドルを握るドライバーのため息や、戦略の意図を浮かび上がらせた、とも言える。
70年代中盤から80年代にかけて、若者が役者を目指し舞台に立つということそのものが、或るカタルシスを帯びるものだったのだろう。
不意に現れたつかこうへいという特殊な単焦点マクロレンズは、人間の業や欲望と社会の暗部が交わる一点を露出し、露悪した。
落ちれば落ちるほど浮揚し、俗にまみれるほど高貴に輝く。
つかの戯曲は、人とのリアルな接点が減るのが正という現在からは、異世界に見えるほど骨太な人間観に支えられている。
作品に同時代性なんて不要だと、もちろん私も思う。
でも、ライトなファンでさえ劇場から足が遠のく現在の状況では、どうしても、客席からは「いま、これをやる意味」を過剰に求めてしまうことを今回自覚した。
演劇をする者だけでなく、観る者は何を求めて劇場に集うのか。
ただ、これまでやってきたからか。ただ、観る習慣があるからか。
そんなものは、一年二年とこの状況が緩やかに続くなかで、悲しいほど失われて、気づけば、ただでさえ少ない母数の中で生き抜いてきた業界は、さらに少ない一部の好事家のものになってしまうだろう。
それで成り立つならもちろん何の不満もないのだが、おそらくは厳しい。
生活と表現。
つかもオリザもそこを直視し、特にオリザは社会の制度のほうを自らの理想に変える格闘をずっと続けている。時に大きな摩擦を起こしながら。
生活と表現。
いま、直接の関係のない場所にいる私でさえ途方にくれてしまいそうになるが、でも、違う業界だってもちろん同じ状況だ。
もし劇場が、芸術が、人生の、社会の、なにがしかの縮図であるならば、もう大多数を救うことを目指さなくてよいから、私とあなたともう数人の、いまとせめて3年先くらいまでのわずかな光を感じたいと、久しぶりの暗闇の中で思ったことは、少し祈りにも似ていた。