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十六年前のラブレター

2005年に自分が書いた、決意表明のような、ラブレターのような手紙が不意に出てきた。
“出さずじまいのラブレター”と言えればカッコ良いのだけれど、コピーなので、間違いなく出す前に念のためコピーを取ってファイリングして、原本は出している。
この奥ゆかしさだ。何がだ。

16年の時が経っていることに経っていることにも驚くけれど、25歳の率直なやるせなさを表現していて、案外楽しく読めた。

もちろん、十六年前の日々の葛藤は、6割思い出せて、4割思い出せない。
でも、書くことで、そしてその書いたものが自分が読んでも面白いと思えることで、どうにか救われようとしている自分が脳裏に蘇ってきた。

当時まだ、表現がギリギリ特別な人の特別なもののように思えていた。
なんというか、重心が懸かっている。

切実さが文体を選び、具体的な事象の羅列がリズムを生んでいた。

41歳、私もずいぶん同時代的な生き方になったものだと思った。
だからこそ、同時代の視線が気になって書けなくなっていた。
もっと役に立つ文章を。
もっと役に立つ人間に。
どんどん自分の表現する手応えがなくなっていったが、それが年を取るということだと割り切ろうとしてきた。

何人かの知り合いがこの世を去り、私の仕事は3回ほど変わって、家庭を持ち、二人の娘を授かり、あと、下品な後輩が市議会議員になったりもした。

それなりにできることは増えた。書けない表現も増えた。

読む人を、十年後の自分だと想定してみる。
嘘も格好もつけられない。
だって、そんな文章はやっぱり自分でコピー取ったりしないから。

その再読の楽しみのために、今、もっと正直に書いていこうと思った。




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